ネットフリックスで。タイトルだけで大体わかる、地球滅亡もの。

この間、大塚の『ストーリーメーカー』を読んだが、アメリカのこういう映画、ドラマってベッタベタに物語論通りのプロットなんだよね。

まず欠如した男。自分の家に帰るだけなのに、なぜかインターホンを押しそうになる、どうやら家庭内離婚的な感じのようだ。

 彗星が落ちてきて、最初はみんな派手な天体ショー気分、それがフロリダ半壊で一気に目が覚める、あ、これやばいやつだ。

 

いつもの、米軍基地からシェルターへの流れ。結局は、危機の中で、男は妻と子供を取り戻し、ついでに父親(今回は義父だけど)とも和解する。フロリダあたりから、アメリカを縦断にカナダまで、そしてぎりぎりの飛行機に乗って(離陸寸前に飛行機の前に飛び出す・・・何回見たことだろうこの光景)、グリーンランドにあるとされるシェルターへ。

 ストーリー的にはあまりにも予定調和だし、地球滅亡の理由が隕石(彗星)で、ひねりがないし(太陽光で死ぬっていうドラマは見事だったな、シーズン2は見てないけど)、特に何が面白いとは言えないんだけれども…

 まあ家族愛とか、父と子とか、夫婦の和解とか、アメリカ人が好きそうなメッセージはちゃんと全部押さえているから、安心して観れるよね。最後があまりにノアの方舟すぎて、やっぱりアメリカで映画作るとこうなるよねって感じ。

 

追記

問題はつまり、こんなベタベタでなんら斬新なところがない映画が、なぜ2時間も視聴者を椅子に座らせたままにできるのかということにある。どのくらいベタなのか?

 まず主人公たちは、アメリカの白人家庭だ。ただし最近の流行にのっとってというべきか、家族なのに人種的多様性がある(妻はエキゾチックな感じで、やはり女優はブラジル系。夫はスコットランド系、子供はすごく白人。妻のお父さんは典型的なカウボーイに見えるから、どうなってんだよってなる)。そして、彼らが避難の途中であう人々、白人だったら大概悪いやつ(奥さんを車から突き落として子供を誘拐、夫のリストバンドを奪おうとして殺人につながる喧嘩に)で、黒人だったら大体いいやつ。でもこれじゃあモーガン・フリーマンが演じ続けたマジカル・ニグロだっけ?の頃に戻っているだけじゃんってなる。主人公は(やや人種的ばらつきを見せつつも)白人で、黒人が助けてくれる(でも死ぬ)。

 夫、妻、息子の三人組は、一度、完全にバラバラになる。そしてそれぞれが自分に与えられた試練を乗り越えて家族に再会し、三人一緒にシェルターに向かう。三人それぞれを主人公にした物語が並行して、分岐し、収束する(主に夫と妻だけど)。

 そして「チェーホフの銃?」だっけ? 息子が車の中でリュックを開いて落とし物をすると、数分後に、中盤での危機の山場を作り出す。で、逆に、銃を与えられたのに生かされなかった方は、もっと意味深になる。

 夫と妻はどうやら夫の不倫によって不和になっている。そのため、妻の父親と夫はギクシャクした関係。でも二人で力を合わせて、妻を救い出す。そして、父親は「夫」に銃を渡し、空港へと送り出す。この銃は、意外にも使われない。でも、あのシーンは回収されなかった伏線ではない。そうではなく銃はファルスであり、妻を救い出そうと必死になる主人公の姿を見て、父親は娘を彼に託したのだ。家父長制社会(カウボーイだからね)で、この田舎の家の中では、この父親がボスだったが、それによって正式に主人公へと父権が移り、父親はこの農場で一人死んでいくことを選ぶ。

 だからね、例えば三世代とかでこの映画見に行っても、ちゃんとそれぞれに感動ポイントが与えられているんだよね。もちろん、信心深い人向けに、ちゃんと最後はシェルターを9ヶ月ぶりに開けると鳩がパタパタする場面で、新たな世界を築いていくんだという希望で締められている。こういうパニック映画だと、観客を一秒でも飽きさせまいと、完璧に物語論的に構築されたプロットで進んでいくので、もはやロシアの魔法物語と同じレベルで、「全く同じ物語」に集約してるんじゃね?と思えてしまう。面白いんだけどね。