100分で名著、2022年5月号のテキスト、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の解説。

テレビ番組自体は見たことがないのだけれども、最近よく100分で名著のテキストを読む。ブルデューのやつとかすごく面白くて、自分にあまり馴染みのない分野だと特に、こういうテキストで大枠を掴んでおくことの重要性を強く感じた。

 

アリストテレスはよく知られているようにキリスト教世界では長く失われていて、イスラム教圏で研究が続けられ、12世紀になってようやくヨーロッパに戻ってきた。特にトマス・アクィナスによってキリスト教的に解釈が行われたことにより聖典的な役割を持ち、それが後の自然科学者を苦しめることにもなる。ところが、そもそもアリストテレスは「非キリスト教」的なんだよね(イエス以前だから当たり前だが)。彼の「世界の永遠性」は、キリスト教の天地創造と終末に反しているとのこと。それじゃあ、ガリレオはなんであんなに・・・と本末転倒感が否めなくなる。

 

さてこの「倫理学」だが、ギリシャ語では意外と日常的な言葉から来ている。エトス「習慣」がエートスになると「性格」になり、そこから形容詞化、さらに再び名詞化した「タ・エーティカ」というのが原題らしい、つまり「性格・人柄に関わること」という意味であり、「こうしなければならない」というような教条的なものではなく、もっとどう生きるのが幸福なのかという人生論に近い。だから、時になんだが現代の自己啓発本にでも出てきそうな、あるいはどこかの宗教の宣伝文句に出てきそうな、そういう文章も出てくる。

 

最初に語られるのが目的の連鎖と最高善。何のために勉強するの→良い大学に入るため→知識・技能を身に付けるため→良い社会人になるため、とあらゆる行動は何か目的を持ち、その小目的自身も何か別の目的のために行われている。じゃあ、それらの目的は結局のところ虚しいのか? アリストテレスはとても「まっとう」な人なので、良い答えを出してくる。それは最高善と言う究極の目的がそれらの目的の連鎖の末にあるのだ、と言うこと。その最高善とは「幸福になること」に他ならない。何だか拍子抜けするかもしれない。

 

そもそも人は本当に最高善「幸福になること」を目指して生きているのだろうか? この問いに答えるために?アリストテレスは善あるいは価値を三つに分類できると考える。道徳的善、有用的善、快楽的善。善と言うと、「快楽的善」って何だよって思うんだけど、ここでは価値とか「良いこと」くらいのものらしい。だからお腹が空いてパンを盗むのは(快楽的善)のための行動であり、会社で不正が行われていることを知りつつそれを隠すのは会社を守るための(有用的善)なのだろうか? まあとりあえず読み進めてみよう。

 

何だか結局のところ、人間が持つ可能性を実現すること、具体的には人間にしか備わらない「理性」を開発することこそが、幸福になる方法なのだとする。「知ること」こそが幸福なのだと言う、フィロソフィア的な言説だろうか。

 

ともかく、人間の可能性を十全に実現することこそが幸福である。そして人間の徳「アレテー」(その本性が発揮された状態、ナイフのアレテーはよく切れること、馬のアレテーは速く走ること)として四つの枢要徳を提示する、それが賢慮、勇気、節制、正義。

 

ちょっと面白いのは、それらの徳は、何かピラミッドのてっぺんにあるようにイメージされるのではなく、両極端にある悪徳の間、中庸にあるとされること。例えば、臆病と対立するのは勇気ではない。臆病の反対側には向うみずがあり、両方同じくらい悪徳なのだ。勇気は、その中間にある。だから中庸というは単に、「ほどほど」「腹八分目」みたいな意味ではなく、ちょうど真ん中!なのだ。

節制も面白い。放埒(自分の欲望のままに何の理性のブレーキもなく動く)の反対は、無感覚なのだ!(何を食べても何も感じないから、特に食欲を持たない。人生の喜びを味わわない)。放埒と無感覚の間に節制という徳がある。

 

とはいえ、節制と放埒はやっぱり対立構造で考えることもできる。そうするとこれは理性と欲望の綱引きという、私たちにもよく理解できる図式になる。食事で考えると、節制がある人というのは野菜スティックを食べて、毎日1時間筋トレして、しっかり8時間睡眠をとって、良質なタンパク質を摂取することで完璧な肉体を維持できることに喜びを感じるC・ロナウドみたいな人だ。他方放埒な人というのは、ソファーに寝そべってサッカーの試合を見ながら、ピザを食べコーラをガブ飲みし、太鼓腹を満足げに叩く巨漢だろう。ほとんどの人はその間にある。

抑制がある人は、「もう20代じゃないんだから」と自制して、ジャンクフードは避けて、運動を心がけるが、食堂のカツカレーによだれが出てしまう(彼は理性がギリギリ欲望に打ち勝っている)。他方で、抑制のない人は、「もう20代じゃないだから」という心の声を聞きつつも、そのカツカレーを注文して、帰りにはマクドで新商品を食べてしまい、その夜は後悔する(欲望に負けてしまった)。この二人は共に葛藤を持っているが、両極端の二人は「迷いがない」。ほとんどの人はやはり葛藤を持ちながら生き続けるように思う。

では、どうすれば「節制ある人」になれるのか?あるいは他の枢要徳、賢慮、勇気、正義を持てるのか? アリストテレスの回答はすごくはっきりしていて、同時に何だよってなる。「節制ある人になりたかったらね、節制ある行動を取ればいいんだよ!」

ところがこの人を馬鹿にした回答こそが本質なのだ。習慣が性格、人格となり、それこそが倫理となる。勇気ある行動を一度取って見ることで(いつもはドッチボールで逃げ回っていたが、はじめて受け止めに行く)、それこそがむしろ幸福であることに気が付く(受け止める気満々の人よりも、背中を向けて逃げている人の方が狙いやすい)。そうすると、臆病という悪徳よりも勇気という徳を行っている状態の方が心地よく、そもそも欲望に流されなくなる。そういうことのようだ。

 

 おそらくトマス・アクィナス経由で、私たちがよく耳にする(しすぎた)人生観などの土台となっているアリストテレスの『ニコマコス倫理学』。またいつかちゃんと岩波文庫のを読もう。