ウエルベック読書月間。『セロトニン』を読んだときは、もうウエルベックなんて読まないぞと思ったのだが、彼の初期の作品を読んでみると、すごいいい小説書いていたんだなと改めて思う。安易な露悪的差別主義に流されることなく、ちゃんと現代社会の問題点(そしてそれがまだ言語化されていない頃に)をしっかりと表現している。

 

ウエルベックって過激な性描写がまずは目を引くから、ヒッピーとか、フリーセックスとかそこらへんの、日本でいえば村上春樹世代の作家かなって思ったりもするけど、彼よりも10歳近く若く、ベビーブーマーよりちょい下の世代なんだよね。だから、その辺の「性の解放」の理想と現実をよくわかっている。村上春樹の主人公が、何もしなくても可愛い女の子と寝る特性を持っているとすると、ウエルベックの登場人物はそれを横目にずっとマスをかいている(失礼、本文に書いてあるので)。

 

ウエルベックはある「歴史」を提示する。資本主義以前の世の中では、みんなが分相応な生活を送っていた。親と同じ仕事に就き、親が探してきた娘と結婚し、自分にそっくりな子供たちを育てていく。各自が、その身分に応じたそれなりの安定して幸福を得ていた。

 資本主義が発達するにつれて、経済的な勝者と敗者がはっきりと分かれるようになる。勝者は使いきれないほどの富を独占し、敗者は仕事をなくし、何よりも無職となることで社会の中に居場所をなくす。資本主義は、自由競争のメカニズムであり、99パーセントの人間は自己実現できなかったという悔いと共に世を去っていく。

 ウエルベックの真骨頂は、ここから始まる(というか、上のことは書かれていない)。そういった自由競争は、1950年代までだったら経済の次元に留まっていた。ところが、性の解放により、恋愛、結婚という分野にまで、自由競争原理が押し寄せていく。性の解放が理想としたような、自由な恋愛を享受できるのは一握りの恋愛強者のみだった。大多数の男女は、「宗教」や「道徳」という防波堤、言い訳をなくしてしまい、ただ「28歳になったのにまだ童貞(処女)だ」という惨めさに苛まれる。

 恋愛強者であっても幸福は得られない。もてる男女は15歳からディスコやらに出入りして、そこで不特定多数とジャンジャン関係を持つようになる。そうすると数年後には完全な「売女」(本文からの引用ですよ!)の出来上がりだ。そこに「愛」などが生まれる余地はもうない。

 

 だからウエルベックは、あれほど露悪的だから誤解されがちだけど、恋や愛といった純粋なものがもう得られなくなった現代社会に対して、「ああ、そうでなかったらよかったのに」と嘆いているのだ。

 

で、

2022年に本書は読むと、「非モテツイッタラーじゃん」となるに違いない。というか、彼らの本棚に絶対あるのがウエルベックだと思う。そこから家父長制復活支持への距離は近い(し『服従』ではイスラム教への改宗という形で、それが可能であるか検討されている)。

影響力があったがゆえに、現代のSNSで奇妙な反映が認められ、それによって元ネタ自体までもが読まれぬままに批判されうるという点では、ポストモダン思想とも近いものを感じる。とはいえ、ウエルベック自身にも間違いなくその原因はある。