12年ぶりの再読。なのだが、ひとかけらも覚えていない。

ドストエフスキーは『罪と罰』はキャッチーなストーリーがあるし、『カラマーゾフの兄弟』は謎解き要素があるから、読んだ気になれるのだが、この『未成年』は極めて読みにくい。文章が難しいわけではなく、むしろほとんどが会話だし、その内容も自分を多少知的でミステリアスだと思い込んでいる大学一年生が居酒屋で先輩に吹っかけるようなあまりにも陳腐な駄弁に程近いので、むしろ易しい。何が難しいのか? 登場人物の中で、一人称の語り手である主人公がもっとも「知らない」のだ。

 

物語はモスクワという「田舎」から出て、ペテルブルグという「都会」にやって来た主人公(21歳だったかな、まだ未成年らしい)が、20年間で一度か二度しか顔を見たことのない父親と母親、そして初めて顔を見る妹と同居し始めるところから始まる。

 父親のヴェルシーロフは貴族。男やもめだった頃、家僕であった老人の若き妻を奪い、彼女と共に都会で生活するようになる。主人公はその不義の子だが、親戚のところや寄宿学校に送られ、親の顔を知らなかった。僕の父親、ヴェルシーロフとは一体どういう男なのか? 

 友人や初めてあった人たちにも誰彼構わず「ヴェルシーロフのことをどう思います?」と質問し続ける青年。どうやら彼はドイツの保養地でとんでもないスキャンダルを起こしたらしいぞ。ソコーリスキー公爵というおじいさんの病弱な十七の娘に手を出して、妊娠させた挙句、捨てられた娘はマッチの燐を飲み込んで自殺したらしい。老人も悲しみにあまり死んだとか・・・。彼らの埋葬の後、ソコーリスキー若公爵がようやくやって来て公衆の面前でヴェルシーロフを平手打ち。しかしヴェルシーロフはそれに決闘でもって応えなかった! この二重のスキャンダル(少女を誘惑して自殺させる、平手打ちされたのに決闘しない)がヴェルシーロフをペテルブルグの社交界から追放したようだ。

 

 そこに遺産の問題が介入する。ストルベーエフ氏という人の死後、その遺産がヴェルシーロフとソコーリスキー公爵家の間で争われ、ヴェルシーロフの勝訴となりそうな展開。しかし、そこに彼の不利となる重大な手紙の存在が明かされる。青年に託されたその手紙を、彼は脇のポケットの内側に縫い付ける(確かカラマーゾフの兄弟の長男もそんなことしてたよね?)。この手紙で父親を破滅させてやろう楽しみだな。

 さらに、第三の問題。ヴェルシーロフは助平じじいだ。新聞広告で家庭教師をしますと書いている若い娘に連絡して、その窮状につけ込み卑劣な行為に及んだそうだ。

 

大体ヴェルシーロフのことはわかって来たぞ。こんな男と一緒に暮らすわけにはいかない、僕はもうここを出る!

 その夜。大展開。家庭教師の娘が絶望のあまり首を吊って死ぬ。その死後、ヴェルシーロフは体目当てで彼女にお金を渡したのではなく、本当に人助けのつもりに一生に一度の善行を行いたかっただけなのだということが明らかになる。さらに、ドイツ温泉地でのスキャンダルも同様の展開に。実は、あの娘、ヴェルシーロフと出会う前に別の男と恋仲になり、妊娠してしまったのに、それに気がつかず彼を振っていた。妊娠に一人気がついたヴェルシーロフは、彼女に結婚を申し込むことで(青年の母親とは結婚していない)彼女を破滅から救おうとしたようだ。

 そして遺産問題。勝訴となり大金持ちに舞い戻ったヴェルシーロフだが、なんとその翌日、青年から突きつけられた例の手紙を持って訴訟相手を訪れ、遺産を全て放棄すると宣言したのだ! この高潔な行為に青年は感動。

 

どうやらヴェルシーロフ(父)のことを完全に誤解していたようだ。そんなことを妹との会話を通して知るのが第一部のラスト。

 

これがなぜ読みにくいかというと、主人公が一番情報に通じていなく、一番熱病的で、一番精神年齢が幼いからだ。彼は「ロスチャイルドになる」という『理想』を持っている。そして別に誰も聞いていないのに、「僕には『理想』があるので、でもそれをあなたなんかには絶対に教えません!」って胸を張って言ったりする。抽象的な議論がされている中で、自分に話が振られるとバカと思われるのが怖くて長広舌を振るうのだが、如何せんあまりに抽象的思考が苦手で、全ての話が具体的エピソードの羅列か、誰々が言ったことに終始してしまい、結局何を言いたいのか理解してもらえない。

 ドストエフスキーって「偉大なる文豪の思想」的に読まれることが多い作家だと思うが、少なくとも本作の主人公は、あまりに支離滅裂だし、何を言いたいのかわからないし(本作冒頭でその言い訳をしている)、彼のセリフの中に小説のエッセンスを求めるのはやめた方がいい。そういう意味で、極めてポリフォニックな小説であることは確かだ。明らかに多くの登場人物は、主人公のことをかなり格下に見ているし、ちょっと頭がカッカしたお可哀想な青年として遇している(「うんうん、そうだね、君は正しいよ」)。その熱病的なプリズムを通して小説世界全部が見られるから、数百ページも経つと同じ人物の評価が正反対になる。

 

 面白いなと思ったのは、この頃はモスクワって田舎扱いなんだね、主人公も家庭教師母子もモスクワからペテルブルグにやって来て、その大都会で困惑した数ヶ月を過ごす。それはなんでかなと思うと、モスクワは内陸の都市だけど、ペテルブルグはヨーロッパに面した(フィンランド湾の奥)、ロシアの玄関口なんだよね。ロシアの貴族たちはフランス語をいつも会話に挟み込むし、スキャンダルが起きたのはドイツの温泉地だし。そして主人公の友人クラフト(ドイツ人と揶揄されるがロシア人らしい)は、ロシアは二流の民族、国家だという「誰もが知っている」事実のために、自殺する。この強大なヨーロッパコンプレックスとその裏返しとしてスラブ主義に挟まれた若者たち。

 この時代の小説を読んで思うのは、ロシア貴族のコスモポリタン性と、彼らの庶民・元農奴(ロシアという土地に縛られた)に対する無関心さ(フランスでもそうだよね、このころは国内の貴族・ブルジョワと庶民の壁の方が、国境よりも遥かに分厚い)。ヴェルシーロフやその息子である主人公は、自分は開かれた人間ですよとアピールするために、元農奴に優しくしたり、あるいは「自分は公爵家の人間ではなく、元農奴の息子でその地主の私生児だ!」とその出自の「卑しさ」を誇ったりする。