かなり大きなテーマなので、やや焦点が定まらない印象はあるが、個人的にはエロチックな18世紀とブルジョワ的な19世紀の対立(第三章)が面白かった。

 

18-19世紀的フランスでは、未婚の少女の貞潔は何よりも重要視される。結婚前に男と関係を持つような娘は、娼婦扱いされるからだ。親は結婚まで娘の純潔をなんとしてでも守るために、世間から遠ざけ、修道院や寄宿学校に閉じ込める。小説を読んでいると女性の多くは少女時代を親元から離れて、「牢獄」で暮らしていることが多いのはそのためだ。

 そしてよく知らない相手と結婚させられる。世間の常識から離れて、そしてこっそりと読む少女漫画的恋愛物語に妄想を膨らませていた少女は、初夜の日に暴力的に犯されて、目が覚める、ああこれが結婚だったのか(モーパッサン、女の一生など)。

 ところが、一度結婚してしまえば、人妻の貞潔はそれほど問題とはならない。いや、そりゃあ夫としても不倫はされたくないのだが(されるとコキュ「寝取られ夫」として馬鹿にされる)、自分もしているから。そして未婚の青年たちにとって、ぺちゃくちゃと話すことのできる女性というのは人妻しかいない(未婚の少女は両親によって堅く守られている)。そんなわけで必然的に、人妻と青年との(年も近いしね)ロマンスというのが、フランス文学での愛の定番となる。

 でも、それってどうなの?未婚の時は貞潔を重要視するのに、結婚するや否やそれが軽視されるのはおかしいのでは?という疑問が出てくる。むしろ少女時代に自由を与えて、「恋愛結婚」をさせて、結婚後は貞潔にする、もしそれが守れない状況なら「離婚」の自由を与えるべきでは?という反対意見が出てくるのだ(ルソー、スタンダール、バルザック、サンドなど、文学者たちが語る結婚論、女性教育論は、このような対立軸に基づいている)。

 

 現代日本での「恋愛小説」って当たり前のように、「未婚の男女の恋愛」であることがスタンダードで、不倫だったら「逸脱」になる。その目から見ると「フランス文学って不潔だよね」とか「フランス人って不倫ばっかりしてるよね」という感想が生まれてくるわけだ。そういうわけではない(そうでもあるけど)、あなたのスタンダードは、結婚と恋愛に関する価値転倒以降(19世紀)のものなのだ。

 そういう意味で、当時の結婚、恋愛感に否を突きつけたルソーの『ヌーヴェル・エロイーズ』こそが、日本人が考える「普通の恋愛小説」の起源の一つでもあるのだ。

 

 バルザックもその流れで、自由恋愛、恋愛結婚の支持者だったらしいのだが、サンドとみっちりと話し込む中で、彼女の過激な家庭制度批判(当時としては)に反発し、かえって保守、伝統へと戻って、家庭の秩序を個人の恋愛に優先させる物語を書く、と。

 

ちなみにスタンダール『赤と黒』で牢獄のジュリヤンをレナール夫人が訪ねる場面。毎日面会に来てくれると聞いたジュリヤンは「狂おしいほどの喜び」に浸り、寄り掛かった二人が「ようやく口がきけるようになると」、レナール夫人が・・・と言った、という場面がある。これは18世紀的な恋愛のコードに基づいて読解すると、性行為を回避的に描いている、ということらしい。なんと死刑を目前とした牢屋の中で…。朝チュンのはしりだな。