今日読んだのはハクスリー(ハクスレーだと思ってた)の『素晴らしい新世界』の解説本。あれを読んだのはもう5年ほど前らしい、若々しい感想があったので載せておこう。
ハクスリー『すばらしい新世界』

この緑色の解説書は結構分量が多くて(1時間くらいで読めるよ!とキンドルに教えてもらう。もちろん1時間半くらいかかる)、伝記的紹介、あらすじ、分析など充実しているので、再読した気分になれるのが良い。そんなわけで読んだことのない(読んだけど忘れた)本について語ってみよう。

ハクスリーの生涯はどうやらそれだけで小説3本分くらいのネタになりそうだ。母親は英国で初めて大学を出た世代の一人で、父親、祖父は生物学者。その影響で生物学、医学を勉強するも失明しかける。タイプと点字を習って、今度は文学、哲学のコースに進む。
 精神科医の監修のもとにメスカリンを(打つの?飲むの?)やって、神秘体験をしようとする。その体験を本にして1960年代のヒッピーたちに影響を与える。LSDを妻に頼んで投与させて亡くなるが、その日世界はJFK暗殺のニュースの方をだけを向いていた。

あらすじを読んでみるとかなり重要な点を忘れていたことに気がついた。この小説の主人公はベルナール・マルクス(19世紀フランスの生理学者クロード・ベルナールとマルクスに由来)というカーストは最上位なのに体格は下位カーストみたいにひ弱な男。とっても健康で全体主義的なユートピアの中で憂鬱になる自由も与えられないマルクスの居心地の悪さ。
 マルクスはレリーナ(もちろんレーニン)と野蛮保護地区へとバカンスに出かけ、そこで「おぞましいことに!」自分の子供を産んで育ててしまい、その恥辱のゆえにインディアンに混じって生活している元文明人女性を発見する。その息子は母親から文明の素晴らしさを諄諄と聞かされ育ったので、連れて行って欲しいとマルクスたちに頼み込む。後半はその野生人ジョンが、文明社会に直面し、そこがとんでもないディストピアだと幻滅する物語だ。

 ディストピアはそれに完全に取り込まれているものにとってはユートピアだ。だからディストピアを描くためにはそこから疎外されている必要がある。だからマルクスが主人公だったのだが、この男、案外中途半端なのだ。「僕は人とは違うんだい!」と言いながら、誰もが羨む美女エレーナをデートに誘うことばかり考える。世界の統治者の一人との面会にこぎつけ、世界の秘密を知っても、外れ者として「島」で自由に学問をやったりすることよりも、みんなと同じように幸せに生きたいと思ってしまう。
 そんなわけで、もっと強力な異物が途中から彼のポジションを奪ってしまう。野生人ジョンは、シェイクスピアを諳んじながら「文明」というものへの憧れを膨らませていった野蛮人だ。だからこそ実際の文明が、人間を試験管で製造し、各々の職業に合うように知能を調整し(単純作業する下層階層は、不必要な知能を与えられずそれが一番幸せだと思い込まされる)、性欲は完璧に満たされ(妊娠、出産、家族はもっとも卑猥な語になった代わりに、性交自体は子供の頃から自由自在)、一人になってものを考えることする許されない、不幸せになることを禁止された社会であることに強い失望を抱くのだ。
 
 こうみると、なんか役割が被ってしまっている。だから僕の中ではジョンはベルナールと同一化して覚えられていた。映画版でも、この混乱を避けるために、ベルナールを主人公にして、レニーナと野生の世界で新生活を始めるぜ!みたいなハッピーエンドに終わっているものがあるらしい。でもそれは、ジョンの父である世界統治者とジョンの母(野生に取り残され、何十年も文明を恋しく思いながら、インディアン社会に同化できない人)の悲劇という、そもそもの出発点でしかないわけで、あんまり良くない映画だよと指摘している。
 ガタカなんかもこの影響下だし、ウェルベックの素粒子のユートピアも似ているよねと(そういえばそうだったな)。ここでサイコパスの名前は出てくるかと思ったが、出てこない。まだ時代がついてきていないようだ。