これは素晴らしく面白い。教養主義の没落なんてタイトルだから、「昔の学生はよく本を読んだ、それに比べて今は・・・」みたいなことから思ったら、そういう思いは極力抑えて、そもそもなぜ「昔の学生はよく「教養書」を読んだのか?」という問いに遡って、とりわけ旧制高校から新制大学に変わる頃の世代に注目して、教養主義の変遷を歴史的、社会的に読み解いていく。

 まず教養主義に関して押さえておきたいポイントは、ピエール・ブルデューのいう「文化資本」として教養を捉えるべきではないということ。フランスでは文系エリートは、古典語の習熟が不可欠で、幼少期からどれだけ豊かな文化に曝されてきたかということが重要である。理系ノルマリアンと比較すると、文系ノルマリアン(えらい学校)の両親は、より上流でかつ「パリなどの都市出身者」が多い。理系の場合は、本人の努力で、文化資本の差(親が大学教授で、演劇を観に行き、夏はイギリスに語学研修に行く)をカバーできるが、親から子へと受け継がれていく文化資本によって文系エリートは自己再生産されていくのだ。

 ところが日本ではこれが逆転する。理学部と文学部を比べると、両親がより上流でより都会出身なのは理学部なのだ。昭和13年の東京帝大では、最も田舎出身者が多いのが文学部(27パーセント)でその逆が理学部(12パーセント)となる。日本にブルデューの理論をそのまま当てはめてはいけないのだ、なぜか。
 日本では「教養」は、「西洋文化」を意味したからだ。特に大正どころか、昭和中期に至っても、田舎から東京にきた学生は、現代でいうと途上国から来た留学生が味わうような衝撃を受けることになる(三四郎のように)。物質的には、田舎と都会で育った環境にあまりの差がある。田舎者は江戸っ子の風流も分からないし、口から先に生まれてきたような都会的知性に言いくるめられてしまう、それに路面電車にも轢かれそうになる。
 その点、西洋文化=教養は、本さえあれば熊本の山奥でも学ぶことが出来た。「泥臭さ」からの脱却の道として輝いていたのが「日本式教養」であり、それはむしろ親世代と田舎性からの断絶を意味している。(だから旧制高校生はやたらとドイツ語の歌を歌いたがる)。

 そして教養主義において、大学と並ぶ威容を誇っていたのが岩波文庫であったが、なぜ岩波はその地位を確立したのか?それには創立者岩波茂雄の「周縁的」な地位が大きく寄与していた。岩波は一高中退後、東京帝大に通っていたが、本科生ではなく選科生としてだった。選科生は、定員を補充するために入学を許可されたが、制服制帽を着ることが出来ず、書庫に入れない(三四郎でいうと佐々木与次郎は選科生)。
 そんな「一応エリートコースにいるようでいて(空間的には)、でも周辺」という地位は出版業に際して大いに役に立った。一高、東京帝大で多くの友人を得たために、彼らに執筆者になって貰うことが出来た。その一方で執筆者となる若い東京、京都の帝大の先生に対しても、岩波は腰を低く「どうかご研究をまとめてもらえますか」と頼むことが出来た。
 そして多くの大学の先生が岩波から著作を出すことで、大学と岩波の相互依存関係が出来上がる。教養主義は官と民、二つの装置により正統化されていくのだ。

 岩波を左翼的出版社とみる向きもあるが、ここにおいては絶妙なバランスを保っていた。岩波はマルクス主義の主要作品の、「初邦訳」を出すことはあまりなく、別の出版社から邦訳が出た後、数年の「時差」をおいて、出版した。それにより、岩波はマルクス主義を紹介しながらも、ジャーナリズムやプロパガンダではなく、文化財として学問的に研究する、という独自のポジションを獲得できたのだ(そして、その「時差」は大学においてマルクス主義を研究できるようになる「時差」とも相互依存している)。

 そして竹内は、教養主義の最盛期は大正や戦前ではなく、むしろ戦後に来ると考える。軍国主義を止めることが出来なかったのは、教養主義(とマルクス主義)が抑圧され(文系大学生は役に立たないから徴兵される)たからだ!と、教養主義は「殉教者」になり、その流れでサルトルなどが一生懸命読まれるようになる。(その点、ナチスの教養豊かな収容所所長たちを目の当たりにし、教養(西洋文明)そのものの価値を疑問視せざるを得なかった西洋人との間でタイムラグがあったのかもしれない)。

 そして教養主義はどのように没落していくのか?教養主義の没落を語るためには、マルクス主義との類縁関係をまず見なければならない。
 というか、今更ながら「教養主義」を定義しておこう。「哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度」であり、これが大正教養主義として花開く、みんな『善の研究』とかを読む。
 ところが教養主義は、読んでも読んでもまだ読んでない本があり、学問の巨大さの前にますます己の卑小さを感じいり跪拝するものである。当時の代表的な教養書『三太郎の日記』には、「無学な者は独創性を誇るよね、勉強すればするほど自分よりも広く、深く勉強した先人を知るから、すでに論じられたものを知らずに「俺の独創だ」なんていうのをみると恥ずかしいよね」と独創を誇る初学者を諌める箇所がある。「能動的」と考えてあれこれアウトプットする若者は、徐々に学問の偉大さを知り謙虚に書物に向かう。これを竹内は教養主義につきまとう象徴的暴力空間と考える。若者は学べば学ぶほど先人、そして年配者に膝まづかなければならなくなる。
 それを脱却する道こそが、マルクス主義だった。マルクス主義は学べば学ぶほど、「上昇」することができるように感じられたのだ。そして何と言ってもすぐに実践に移すことができる。大正末期にはすでに教養主義からマルクス主義への移行が起こる。
 
 教養主義とマルクス主義が戦中に揃って抑圧された後、リバイバルしたのは先ほど見た。1960年代に、大学一二年生のモラトリアム期の学生たちは学生運動に身を投じる。しかしその時すでに、教養主義を生み出す母体が失われつつあったのだ。
 教養主義は田舎の泥臭さからエリートの脱却の道であった。しかし徐々に大学生から農村性が薄れ、そして大学が大衆化し、進路が「普通のサラリーマン」であることが明らかになるにつれ(それまでは学部ごとに専門を見込んで採用されていたのが、新卒一括採用で専門関係なしに取られるように)、教養は自分たちの未来とは関わりのないものと映った。その無用な特権階級の知識を、「象徴的暴力空間」において押し付ける教養は、新時代の「民衆的な知性」によって嘲弄の的になっていくのである。