面白くて一気に読める。
ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの六人をピックアップして、「すっごく頭いい人たちは、人間とは何かを問うと、案外似たことを言っている」んだよと教える。こういう本を読むたびに、学部生時代の読書のあり方がいかにマズかったかよくわかる。予備知識ゼロで、なんとなくかっこいいと思って原著にぶつかって撃沈を繰り返す前に、こういう本を読んで、大まかな流れを把握することが大事。

一番最初にソシュールを持ってくるところが、「はええ〜っ」てなるところだ。ゴリゴリの言語学で始めに起こった革新的な転換が、のちの構造主義と呼ばれる運動へと繋がっていくことがダイナミックに見えてくる。
 ソシュールといえば、シニフィアンとシニフィエ、くらいしか出てこないくらい無知なんだけども、このソシュールを通過しないことには後の人たちが分からない。そう、なんでフーコーが精神病院についてウンタラカンタラ、あんまり調査もしてないことを語っているのかを理解するためには、ソシュールから始まる「人間」をめぐるコペルニクス的転回から始めなければならないのだ、と。

「ソシュールより以前の言語学では、「コトバはモノの名前である」という考え方が一般的だった。」
うん、そうだね、犬、dog, chienはみんな「イヌ」というモノの名前だよね、そうだね。

しかしソシュールは「コトバは人間が現実を理解するための道具ではなく、コトバこそが人間の現実をつくっていると考えたのである。」

どういうことでしょうか。「メッチャかわいい」という語彙しかない女子高生には、くまモンもモリゾーもせんとくんも、「メッチャかわいい」というボックスに放り込まれて、満足される(一名は怪しいな)。では、コトバはいかにして、現実をつくっているのか。

ソシュールは「コトバ」と「モノ」の一対一の組み合わせではなく、「記号が結びつけているのは概念と音響イメージ」であるとする。そして音響イメージを「シニフィアン(意味するもの)」、概念を「シニフィエ(意味されるもの)」と呼ぶことにする。
 ここで僕含めて多くの人が誤解してしまうのだが、シニフィアンが音声、シニフィエが実在するモノ、と考えてはいけない。ソシュールによるとシニフィアンとは「物質的な音、つまり純粋に物理的なものではなく、音の心的な刻印、つまり私たちの感覚に訴えかけてくる音の印象」のことらしい。

 そして人間が生まれ落ちてから、世界を理解しようとする時、彼は「身分け」と「言わけ」(丸山圭三郎)によって、世界を区分していく。たとえ酸っぱいとしょっぱいとxxxとを「身分け」のレベルで区別していたとしても、それが「言分け」の区分と一致するとは限らない。(ちなみにごく最近になって、僕は酸っぱいとしょっぱいの「言分け」をしていなかったことに気が付いた、いやたぶん身分けではしているけど、一緒のボックスに入れていた、これが語彙の貧困がもたらすバカ舌の実例だろう)

 特に動植物の例が、コトバがいかに現実を作り上げているかをよく見せてくれる。「オオカミ」という言葉が存在しない社会では、「イヌ」に相当する言葉がオオカミの概念をも持っている。「イネ、コメ、ご飯」を区別する日本語と、riceや riz など一単語だけで全てを包摂する言語では、そこに住む人々にとっての現実の区分けが異なる。

「一般にコトバと呼ばれているものは、世界を区分する記号としての語のことであり、言語とは、記号としての語の相互関係から構成される体系」なのだ。

そしてここから始まる「記号学」は、それまでの言語学の領域を超えて、より広い文化事象を対象とする学問へと成長しているのだ。


悪いコトバばっかり使っていたら、悪い人間になっちゃうよ、的な言い方は正しい。でも、それは「水は語る」的な「水に「バカと呼びかけ続けたら腐っちゃいましたー」みたいなエセ科学で説明するものじゃない。人は自分が使いうるコトバでしか世界を区分し、理解することが出来ない。だから、「世の中つまんねえなあ」、ってなるのだ。いや、おめえのコトバがつまんねえんだよ。

閑話休題、
ソシュールは語の「意味」と「価値」を厳密に区別することを求める、なぜか。それは旧来の命名法への回帰を避けるため、そして「差異」によって価値が生じる仕組みを明らかにするためだ。
語の意味は「シーニュ」と呼ばれ、それはシニフィアンとシニフィエの相互の働きかけで発生する。
一方の「価値」は、複数のシーニュ間の関係から生じる。
ソシュールは英語のsheepとフランス語のmoutonの価値は違うことを示す。
英語ではsheepの隣に、羊肉moutonが存在するが、フランス語ではいずれもmoutonである(その理由はノルマン征服)。だから二つの語は、それぞれの言語の中で別の「価値」を占めているのだ。
そう、価値は差異から生まれる。

このようにソシュールは「実体や実在という概念より、関係や体系という概念を重視した。その結果、彼の言語観は、人間の知性や事物の存在を重視した十九世紀までの主知主義や物質主義はもとより、人間の主体を尊重した二十世紀の実存主義に対してもアンチテーゼとしてはたらくことになった。

ふー、長かったけど、まあ一番大事な章だったかな。サイードとかレヴィストとか、フーコーとかってみんな読むし、読んでいると普通に分かった気になっちゃうんだけど、でも大きな流れの中で読まないと、彼らがすごく具体的で特殊な事例について語っていると勘違いしてしまう。

で、バルト。ソシュールが予言した記号学を、その半世紀後に見せてくれる。文章がすごく魅力的だけど、記号学をあらゆる分野で見せてくれるため、僕とかは木を見て森を見ずになりがちだ。
 どうやら、バルトの十八番というのは二つの二項対立の間に、ポーンと何かを持ってくること。ある社会の全員が従わなければならないラング(日本語とかフランス語とか)と、個人に専用のスティル、その結節点に「ある社会的集団が「正しい言葉の使い方」として集団的に承認した」エクリチュールを持ってくる。

 例えば、中学二年生のシンジ君がある日、母親のことを「ママ」と呼ぶとクラスメイトに笑われることに気がついたとする。そこで頑張って、クラスの悪ガキどもに舐められないように、「僕」を「俺」に変えて、「ママ」を「おふくろ」、「パパ」を「オヤジ」、「先生」を「先公」に呼び変える。「おまわりさん」を「マッポ(聞いたことないな)」と言い換えたところで、シンジ君は「正しい言葉遣い」を身につけ、クラスの悪ガキどもの仲間入りを果たす。これが「反抗的中学生のエクリチュール」だ。エクリチュールと、スティルは厳密に区別すること、だから「文体」という日本語の使用には注意されたし。

で、文学の世界ではエクリチュールの束縛をなんとかして逃れたい!っていう抵抗がいつもあった。一番有名なのは、小説は物語的な時制を用いるべし!という束縛から逃れ、複合過去という話し言葉で書いた、「今日、ママンが死んだ。昨日かもしれない、わからない。」から始まるカミュの『異邦人』だ。でも、そのエクリチュールから逃れた、小説ですら、直ちに「カミュ的な」エクリチュールとして固定化されてしまうのだ。
バルトが「白いエクリチュール」の可能性を求めた『異邦人』は、今やフランス文学の古典であり、フランス語学習者が二番目に手に取るであろう本になった。

バルトはœuvre作品という語の代わりにテクストを好んで用いた。それは「無」から天才的な「作家」によって生み出される「作品」ではなく、延々と連なり、終わることのない「織物」テクスチュアを紡ぐ生成的な行為として(その奥の秘密を隠す遮蔽幕ではない)捉え直すためだ。
インターネット時代には非常によくわかることだろう。作家のオリジナリティーという神話は崩壊した。私たちは、膨大に流れ込む言葉の海の中で、なんとかテクストを織っている「集合的なテクスト生成への参加者の一人」であるscripteur「書き込む人」であり、「作家ではないのだ。

あと、フーコーとか色々あるんだけれども、内田(かな)が言っているように、この本は、「すっげえ頭のいい人が人間とは何かを考えると、結構似たことを語っているんだねえ」っていう印象に基づいて構成されているわけで、だから?最初の方がとても面白い。

西洋によくある哲学者、思想家、文学者の「試験に使える引用ベスト1000!」みたいなハウツー本って日本にはないよねえ、あれ、ちょっとムカついていたけど、案外悪くないかもね。っていう不純?な動機で、(五里霧中で)勉強し始めた時にこういうサルでもわかる解説があったらなあという40年前?の自分へのプレゼントとして書かれた思いっきり実用に舵を切った、とてもいい本だ。