ザ・ヌード (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
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必読本なのに、ずっと見逃していた。これは本当に重要な本だ。
裸体ってのは美術で理想美の典型として君臨していて、それを見て「うわーいやらしい」と思う子供を、大人が「これはゲイジュツなんだ、そんなものじゃない!」と諭す場面がどこの家庭でも見られていると思うのだが、その価値観は全然自明なものではなく、長い歴史をかけてでっち上げられたものだったのだ(というか日本においてはとくに、受容のされかたが)。
 
元来、裸体愛好者として名高い古代ギリシャ人も、実際は体操する若い男たちを描いたり、彫ったりはしているものの、女の裸体は本当に数えるほどしかなかったそうな。そんな古代の裸体崇拝も、ローマ人からしたらはしたないものに見えたし、スパルタ人の男女平等裸体運動信仰はアテナイ人からすると顰蹙ものだったとか。つまり、女の裸体を描くことは元来理想美でもなんでもなかった。

では理想化された女性美であるヴィーナスはといえば、そもそもこれは当初から二つの源流を持っていると考えるべきもののようだ。一つはいわゆる天上のヴィーナス、そしてもう一つが俗世のつまり「自然のヴィーナス」である。後者は豊穣の象徴としての土偶のようなものから、前者は高度に精神化されたものにいたるまで。

そして現代の我々が自明のこととしてしまうのが、女性の裸体美を象徴するものが胸であり、ヒップであるということだろうが、それもそもそもあやしい。当初は乳房は離れ、美しさを乱す不要な付属物のようにトルソーにへばりついていたに過ぎず、作家たちが男性像を理想的に描く際に強調した横腹の筋肉などを欠いた女性裸体をどう美化するかということに苦心した様子がうかがえるのである。
 時代時代によって、卵形に細長く伸びたのっぺりとした腹部を強調したり試行錯誤の末に、ボッティチェリあたりでイメージするようなヴィーナスに至る。

そんなヴィーナスも、そのまま受け継がれ続けるわけはない。ルーベンスの手にかかると脂肪太りしてぶっくぶくの裸体が画面を覆い尽くさんばかりだし、アングルのオダリスクは背骨を二つ増やしてまで、実際にはありえない理想の女性美を追求した。そうそのままでは裸体はとりわけ美しいものではなかった。
 キリスト磔刑図でどう裸体を描いていいのかという問題も大きなものであるし、ミケランジェロの申し訳程度に乳房をつけてみた女性と主張する裸体も、まあうん筋肉むきむきだね。
 だからドガが嬉しそうに描くような、醜い女性裸体というのは、伝統的なヴィーナスへの対立軸としてみることはできるが、より広いパースペクティブで見ると、どうやらその時々に応じた当然の創作に位置付けられるのだろう。
 あと道徳的なキリスト教絵画で、しかたなくアダムとエバの裸体を描くときの、気持ち悪いくらいに貧相な裸体(ファン・デル・グースとかの)も面白いし、その反面「貞淑の勝利」シリーズで、服を着込んだ頑強な農婦が、豊満な裸体のヴィーナスを追い払う絵は、どっちが悪者かわからなくなる。

まあそんなこんなで女性裸体は高度に精神化され、芸術といえばヴィーナスというまでになった。ヌード(と服を脱いだ状態を示すnakedは区別しないといけない)という切り口でみると、西洋美術史の流れが一気呵成に飲み込める。すごく面白い本だ。