ルーマニアの変容 (叢書・ウニベルシタス)/法政大学出版局
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1936年、シオランが25歳の時にルーマニア語で書いたかなりの問題作。ナチス、ファシズムのように歴史に名を残すことを願い、あってもなくてもどうでもよいような自らの民族、ルーマニアに怒る。そこまでなら、なんとかならないでもないのだが、ルーマニアの排外思想に関連して(1000年以上に渡って国を持てず、オスマン・トルコとか、ハンガリーとか、いろんな周辺国家によって支配されてきたから、当然ではあるが)、「ユダヤ人は人間である以前にユダヤ人である」とか、「ユダヤ人にとっては風景は存在しない」とか(国を持たないユダヤ人は、住んでいる国が戦争をしようが、関知せず富の蓄積に尽力しつづけるだけだから、と)、当時のルーマニアでは一般的な言説であったにせよ、戦後許されざる言葉をたくさん連ねてしまっている。

そんなわけで、36年のルーマニア語版から、フランス語作家のなってシオランにいつまでもつきまとってしまうことになる、この本は、結局、2009年までフランス語に翻訳されなかった。この年月の隔たりによって、賢明なフランスの読者はちゃんとシオランの「失敗」を読んでくれるだろうとの編集者の意図であろう。
 この本は、あまりにも攻撃的だが、ある種の魅力があることは否定できない。シオランは明らかに、30歳までにこの種の熱狂にとらわれない奴は馬鹿だ、との時期的限定のもとにこの本を書いている。だから、僕には十分彼の言っていることが理解できる。
 ついでに、この本は、ルーマニアだけに関して面白いというわけではない。ルーマニア人であるシオランからも大文化として名指しされる日本文化に生きる我々にとっては、シオランの怒りから学ぶことは非常に大きい。フランス人、アメリカ人は、フランス人、アメリカ人であることを意識せずに幸福でいられる。シオランの叫びは、そういう人々の耳に大抵は届かない。なんでそんなに自分の国が!っていうのだろうと訝しがられるのがオチだろう。自分の依って立つ強固な幸福の基盤に気づかずに、生きているのだ。

引用追記

「ルーマニア人であるということは恐ろしいことだよ。どんな女からも実質的な信頼は得られないし、まじめな連中は、ぼくらがぼんくらじゃないと分かると、ぼくらをペテン師と見て、微笑むんだよ。歴史を奪われた民族の辱めを受けるなんて、いったいぼくらがどんな罪を犯したというのかね。」(15)

二十歳から三十にかけてファナチズムに、狂気に、熱狂に賛同しないようなやつは間抜けだ。人が物分かりがいいのはもっぱら疲労のせいであり、民主主義的なのはもっぱら理性による。不幸こそ若者にふさわしい。(62)

ルーマニアを本能的に愛するのは大したことでもなければ美徳でもない。だがルーマニアの運命に絶望したあげくルーマニアを愛するのは大変なことだし—すべてだ。(119)

ルーマニア民族を私ほどにも愛していない者は—なぜなら彼らはルーマニアの未来を好まないから—いずれもみなルーマニア民族の重要な美点と最高の取り柄は親切さであると断言している。私はそれが欠点であるとは言わないが、私にすればそこには凡庸な美点以外のものは見当たらず、そんなものが最高の美点になるのは個性のない連中にとってだけだ。過剰な心情と知性、熱狂、曖昧な予測、苛烈な本能、欺瞞、こういったものだけが成功の助けになる世界で、集団の親切がいったいなんの役に立つだろうか。(170-171)

人間は自分が歴史の中心だと思ってはじめて創造することができる。ここで問題なのは、自分の狭い地平であたかも自分が唯一の現実であるかのように生きているブルジョワの無意識ではない。瞬間を永遠の規模にまで膨張させる精神の拡大が問題なのだ。・・・私たちが世界になれるとすれば、世界軸が私たちの心臓を貫いている場合にのみ限られるだろう。(179)

唯物論はマルクス主義によって集産主義の思想を堕落させた—これこそ19世紀、ユダヤ人に個別化をもたらしたもっとも由々しい欠陥である。次いでインターナショナリズムが唯物論に加わり、国家の解体が始まった。ユダヤ人は、諸文化の特殊なニュアンスと両立可能な普遍主義に与する者ではなく、彼らが与するのは共通の、人工的な価値、つまりインターナショナリズムである。(220)

20世紀初頭にユダヤ人とコスモポリタニスムが結びつけられるのはこういうことだ。


平和主義者は次の点を考えてみるべきだろう。つまり、このたびの大戦に参加しなかったヨーロッパの民族はいずれもみな自動的に二流ないし三流に下落した、ということを。中立とは政治的には無関心のしるし、国際的な闘いの場の放棄のしるしだ。戦争とは国々が全世界を前にして受ける試験だ。(240)