『来るべき書物』 モーリス・ブランショ | とある文学徒の日常
- 来るべき書物 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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文学とは何かってことを延々考え続ける本。
来るべき書物って題名がまず重要か。まだ存在していない、可能性としての書物について?
なにについて語られているのかが、ほんとに、はっきりしない。文学そのものについて語る文学ってのはえてして晦渋を極めるのだが、そんな一冊。マラルメが詩を書くように、ブランショは批評する。セイレーンから始まり、ルソーや、マラルメ、ブロッホなどなど。
書評、時評なども多く書いたブランショらしく、最初は新聞のように、非感傷的にものごとを語る。そんな個々別々の書評なんかが、そのうちに個々の批評の枠組みを超えて、著者自身の文学論の開陳となる。
そんなブランショの書物、ここの文章を取り上げることに何か意味があるとは思えないのだが、それでも備忘録として。
今日われわれは皆「文芸に逆らって語る文芸家」として、書くことにに逆らって書くことに熱中し、文学から脱出することをねがって文学に没頭し、もはや何ひとつ伝達する可能性がないがゆえにもはや書くことを止めないような種類の作家に、多かれ少なかれなってしまっているのだが、J・スタロバンスキーは、ルソーが、この種の作家の端緒となっていることを見事に指摘している。 (p. 94)
マラルメの詩が、詩が書けないことに関する詩だとすると、それは彼が始まりというわけでも、彼が終わりというわけでもないらしい。ブランショが、あるいはスタロバンスキーが見るところ、20世紀の文学とは、まさにそういうものであり、それは意外なところにその始まりを持っている。それがルソーだと。
社会的な嘘を告発するために、文学的な嘘を利用するのは、たしかに、懐疑派やキニク学派伝来のきわめて古い特権である。だがルソーは、これらの古人から、彼の知っているひとつの伝統をかりうけてはいるが、それと同時に、文学が、彼によって、彼を孤独な挑戦に捧げていることによって、或る新たなる冒険に加わり、さまざまな奇怪な力を開示しようとしていることをも、予感しているのだ。 (p. 96)
ここで、ブランショは、ルソーの『告白』について、おもにスタロバンスキーの論に乗っかる形で、その新しさを明らかにする。アウグスティヌスや、モンテーニュのような、形のうえでは彼の先駆者とも思える人物と、ルソーの『告白』とはいかに違うのか。
もっとも、ここで重要な点は、そこではないのかもしれない。『告白』の新しさを語っているのか、それともブランショの文学の見方が語られているのか。具体的な例から始まり、一見文学研究であるかのように論が進みつつも、やはり収まるところに収まっているのだろうか。
ジューベールからの引用
「空虚以上に価値のあるものは何ひとつ見つからなかったために、彼は、空間を空けたままにしておく」 (p. 122)

