神道には教義がないということは、
このブログでも何度か紹介しています
教義がないということの是非については、
すでに述べたことなので、
今日はちょっと違った視点から見てみようと思います
実は、
世界の三大宗教を含め、
日本の古義宗教や新興宗教を覗いてみると・・・
不思議なことに、
教義がガッチリ固められている宗教ほど
バンバン分派しているという事実
例えば、
キリスト教なら
大きく分けて「カトリック教会・東方正教会・プロテスタント」の三派に分かれ、
特にプロテスタントはルター派やカルヴァン派、バプテスト、メソジスト、ペンテコステなど、
非常に多様な展開をしています。
イスラームなら
大きく分けてスンニ(スンナ)派、シーア派と、
それぞれに多くの分派が存在しています。
仏教なら
身近な日本の仏教界ですら、
天台宗・真言宗・日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・禅宗・南都六宗系と大きく分けられます。
それぞれの分派の他、新宗教系まで含めると
その分かれた数はものすごい数になります
では、神道ではどうなのか?
実は、神道も平安~江戸時代の間に、
多くの神道教説が立てられ(神仏習合色の強いもの、朱子学や儒学色の強いもの、古神道色の強いものなど)ましたが、それらの神道説があるからといって、神社から分派するなんてことはありませんでした。
その後、幸か不幸か明治の明治太政官制度や戦後の神道指令の影響を受け、
それぞれの神道説を唱えない、神社神道という大きな枠に落ち着いています。
もちろん、教派神道や教派神道を母体とする神道系の新興宗教は多数あるものの、
それらは教義を持った教団からの分派です。
戦後も、教義を持たない神社神道からは一切の分派がないのです
つまり、
強い宗教的結びつきを生むための教義は、
次から次へと分派を生み出し、
教義による結びつきを生まなかった神社神道は、
多様な信仰形態を抱えながらも、
神社神道という枠組みを逸脱させない、
極めて寛容な宗教となりました
現在、世界に星の数ほど宗教はありながら、
教義による分派を生まなかった宗教はあるでしょうか。
神道という、ひとりひとりの信仰に支えられた
宗教のサラダボウルが如き宗教は、
世界にも誇れる、日本人のための宗教なのです
神主「N」