新年礼拝 マルコ1・1-15 2025/1/4
主の年2026年を迎え、新年主日礼拝を捧げることができます恵みを感謝します。
皆さまの中にはお正月に今年の目標やビジョンを掲げて祈ったという方もいらっしゃるでしょう。私がまず年の初めに願いましたのは、今年も、昨年のように主の日の礼拝が一度も休止することなく捧げ続けられていくことです。同様にそれは礼拝をともに捧げるお一人おひとりが守られることであります。どうか主が力強い守りの御手をもって、ともに集う私たち一人ひとりを災いからも危険からも救い出して下さいますように祈ります。
又、昨年末にリさんが聖霊のお導きによって、イエス・キリストは救い主である、との信仰の確信が与えられましたので、これからバプテスマの準備を始められる兄弟のためにお祈りしてください。さらに主のみ救いに与る方々が続いて起こされていきますようお祈りください。主の恵みの御業を拝していく1年でありたいと願います。
さて、1月から礼拝ではマルコによる福音書の御言に聞いていきます。12月のクリスマス礼拝とキャンドルライトサービスではルカとマタイ福音書からそれぞれ主のご降誕の記事が読まれました。
ところがこのマルコ福音書には主のご降誕の記事はありません。ただ1章1節に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあるのみです。言わばこれがマルコ流の、救い主、神の子イエス・キリストの誕生物語であるのです。
そのキリストの福音の初めの「初め」とは、原語で「起源とか、開始、出発点」を意味しますが。それは、まさにヨハネからバプテスマをお受けになられた時に、天が裂けて霊が鳩のように降って来た、その神の霊が大きく働き始められたところから、神の子イエス・キリストの福音は始まっていくのです。
マタイとルカの福音書では、主イエスは聖霊によってお生まれになられたとありましたが。ここでも、神の子イエス・キリストの誕生と救いの福音が、神の霊、聖霊に満たされ力を受けて開始されるのです。
次に、聖書は、イエス・キリストが、「どのような救い主であられるのか」を説き明かしていきます。
それは、ヨハネからイエスさまがバプテスマをお受けになられたところにあります。
ヨハネは荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
この荒れ野とは、草木も生き物もいない砂漠ではなくて、放置された、ほったらかしになった荒れ地や荒れ放題の牧草地だったようです。
マタイ9章でイエスさまが、「ガリラヤの町や村を巡回された時、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とありますが。それは、野放しにされたままの羊のように、守り養う者がおられず、滅びの危機にさらされている荒れ地です。
文明や科学技術がどんなに進み、物質的に物があふれていても、同様に飼い主のいない羊のように生きざるを得ず弱り果て、打ちひしがれている人が多いことでしょうか。
そのような荒れ野、荒廃した世に現れたのがバプテスマのヨハネでした。多くの人々が彼に共鳴し、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から悔い改めのバプテスマを受けていたのです。
しかし、それ程多くの人々がどうしてヨハネのもとに悔い改めのバプテスマを受けに来たのでしょうか?ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べ物としていた」とあります。また、彼は神の裁きと悔い改めを公然と訴え、人々に神への立ち返りを促しました。その言動が多くの人々、そして都エルサレムの住民や宗教家たちの心をも揺さぶり、預言者エリヤの再来とまで言わしめたのです。まあ、エルサレムには神殿やユダヤ会堂のシナゴーグもあったわけですが。律法の規定が細分化されることで様々な事情からそれらを守るのが困難な人も多かったのでしょう。たとえそれを守ったとしても、罪の赦しと救いの実感、実体験を渇望する人々が、荒れ野にいたヨハネのもとへ向かっていったのでしょう。
方々からあらゆる人たちが大勢やってきました。当のヨハネは、大衆の心をつかむカリスマ的な指導者やヒーローになることを望みません。彼は、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」と言うのです。ヨハネは、「主の道を整え、準備させる」という自分の役割を自覚していたのです。彼は自らを神に完全に従わせていました。
ここで注目すべきことは、ヨハネが、「自分は水で悔い改めのバプテスマを授けるが、このお方は、聖霊でバプテスマをお授けになる」と言っていることです。
ヨハネの説いた悔い改めは、神の子イエス・キリストが来られるための道を備えるためでした。水の清めと悔い改めも神の恵みの業です。しかし、本当の救いの福音、良き知らせは、聖霊によってバプテスマを授けることがおできになる主イエス・キリストによって実現されるのです
人の後悔や悔い改めは言わば人の側の意志や決意で、それはそれで良いことには違いありませんし、日本でも何かを自覚して滝に打たれて心を入れ替え生きていくというようなことはなされてきました。正月にもみそぎをする人たちをニュースで見ましたが。
けれどもイエスさまは、生ける神の霊によって全身全霊を満たすことがおできになるお方、聖霊に打たれ、聖霊に満たされた人は、新たなるいのちの息を吹き入れられるように新しい人とされるのです。
では、イエスさまはなぜ、そのような権能をお持ちなのでしょうか。
イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになった時、それは4節にあるとおり、罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマでした。そうであるなら神の子であり、罪なきお方が、「悔改めのバプテスマ」を受ける必要はないように思えます。
それは、イエスさまが私たちと同じ人の姿となって、海抜マイナス200メートルにも及ぶヨルダン川の底にまで沈んで、どん底にある人、罪にさまよう人と共に、新たないのちを共に生きてくださるためです。
釜ヶ崎に住み込んでおられるカトリックの本田哲朗神父とお会いする度に、「バプテスト教会は、最も低いところに身をおく沈めのバプテスマを大事にされている」と、おっしゃったものですが。神の御子でありながら人の子としてお生まれになられたイエスさまは、人の弱さや痛みをとことんまで共にされました。そして人の罪をその身に負い、十字架に引き渡され、蔑みと嘲りの中で最期を遂げられたのです。
イエスさまのバプテスマは、人の闇のどん底にまで身をおき、罪びとと共に生きようとなさる決意表明であった、と言うことができます。ここに「イエスさまがどのような救い主であるか」を読み取ることができます。そしてこのイエスさまに、「天から神の霊が降り、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』との御声が臨むのであります。
「霊が荒れ野に送り出す」
さて、その後イエスさまは、「荒れ野でサタンの誘惑をお受けになられる」のですが。その荒れ野にイエスさまを送り出したのは誘惑するサタンでなく、イエスさまのバプテスマの折に降った神の「霊」であったのです。
私たちも時に悲しく、苦しく、孤独を強く感じる荒れ野におかれるようなことがあるでしょう。そんな時、いったいイエスさまはどこにおられるのかと思ってしまうかもしれません。けれども、「世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われるイエスさまのお約束は確かです。
神の霊のお働きは、確かな目的をもって常に導こうとされ、私たちに神の口から出る一つ一つの言葉を与え、その生ける言葉によっていかに生きるかを示されます。又、時にかなった助けを送ってくださいます。ちょうどイエスさまが試みを受ける間、天使たちが仕えていたように、私たちも思いもかけないような助け手や友を起こしてくださるのです。
イエスさまの荒れ野の40日間は、その後ガリラヤから始まる宣教活動の試金石となるものでした。
マタイやルカの福音書にもイエスさまの荒れ野での記事がより詳細に記されていますが。そこには「サタンはイエスから離れ去った」とあります。けれど今日のところには、それがありません。実際誘惑や試みとも言えることは何度も形を変えて起こってくるのですが。それに対してイエスさまは、荒れ野での出来事を思い起こされながら、ご自身の道を歩み通されたのだと思うのです。
私たちは現代の荒れ野で孤独、飢えや渇き、無力感の中で、サタンの誘惑がちらつくような時を経験することがきっとあるかと思います。そんな時、イエスさまが聖書の御言葉によって、神の御心がどこにあるのかを聞き取られ、従ってゆかれたように、私たちもどんな時にも、聖書を読み続ける、聖書アプリでも結構です、聖書を開いて御言葉を読んで味わい、祈り、主と対話し続けることが本当に大切です。
「ガリラヤでの宣教開始」
さて、このように霊の導きのもと40日間荒れ野で試みをお受けになった後、イエスさまはいよいよ福音宣教の活動をガリラヤの地から開始されます。
イエスさまの時代のガリラヤは、都のあったエルサレムの人々から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、田舎者や異教徒の住むところと、蔑まれ、見下されていました。しかし福音宣教はこのガリラヤから始められたのであります。神殿があり多くの宗教家がいたエルサレムからではなく、預言者イザヤが言ったように、暗闇の死の陰の地に住むようなガリラヤの人々に光が差し込んだ。それは、まさしく神の助けと救いを切実に求める人々であり、イエスさまの福音宣教の活動はここから始まっていくのです。
ユダヤの人々は、「ガリラヤから何のよいものが出ようか」と言い、あざ笑っていました。けれども神の恵みは最も救いを必要とする人たちの間から始められたのです。
聖書は、それが始められたのはバプテスマのヨハネが捕えられた直後であったと伝えます。このヨハネから道備えされた神のご計画は、悪の力に阻まれたように見えても、神の霊に満たされた主イエスによってこのガリラヤから確かに起こっていくのです。
「神の国の福音に生かされて」
「時は満ち、神の国は近づいた。悔改めて福音を信じなさい」。ここにイエスさまの最も伝えたい思いが込められています。それは定められた神による救いが今、時満ちて実現している。神の祝福から遠く隔てられていた人々に神の国が今、近づいた。「今や恵みの時、今こそ救いの日」。
それは今日も、私たちが耳にする時、実現されているのです。聖霊によってバプテスマをお授けになる主イエス・キリストは今、「悔改めて福音を信じなさい」と呼びかけておられます。
私たち人の姿をとってお生まれになり、荒れ野において私たちが経験するあらゆる試みを受け、神の国の訪れをこの地に住む私たちにもたらしてくださった主イエス・キリスト。
2026最初の日、この主イエス・キリストの福音に生かされていく新たな日々を歩み出してまいりましょう。
