主日礼拝「福音を共に生きる」マルコ2・1~12 2026/1/11
「お帰りなさい」。新年を迎えて11日目が経ちました。昨日夕方からもの凄い風が朝まで吹いていておりますので心配していましたが、こうして皆さんと主に礼拝を捧げることができ、感謝です。今年も主を仰ぎ見つつ、歩んでまいりましょう。
本日はマルコ2章1-12節の「中風」と書かれていますが、半身不随の人を4人の人たちに担架で担いで主イエスのもとに連れて行き、いやされるエピソードから、「福音を共に生きる」と題し、御言葉に聞いていきます。
まず、「イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」とあります。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えると共に、多くの人が抱えていた病を次々にいやされました。その噂を聞きつけた人々がガリラヤ周辺からぞくぞくと主イエスのもとに押し寄せてきたのです。
この福音は、暗闇に住む民、死の陰の地に住む人に向けられた神の国の到来です。聖霊を通してバプテスマを受けた主イエスが悔い改めと罪の赦し、救いと解放の福音を告げ知らせるのです。
本日の箇所で、4人の人たちと半身不随の思うように手足が動かない人との関係については、彼らが友人や知人であったのか、介護者や使用人であったのかは定かでありません。しかし、とにもかくにも4人の人たちは彼を担架に載せて主イエスのもとへ運ぼうとしたのです。
ところが家の入口は群衆に阻まれてしまい、連れて入ることができません。
すると彼らは何と、主イエスがおられる辺りの屋根に上がり、屋根をはがして穴をあけ、主イエスの前に吊り降ろすのです。
当時の一般的な家の屋根は、木の骨組みの上に藁や草を詰め込んで、仕上げに泥を塗りかためていました。それは比較的簡単に剥がすことができたのです。
それにしても他人の家によじ登り、屋根をはがして大穴をあけ、横たわった彼を担架ごとつり降ろしてその穴から覗き込む4人の姿。ボロボロと落ちてくる屋根の土をあびながらあっけにとられている弟子たちと群衆。何とも言えない光景です。まあ現代であれば器物破壊・家宅侵入罪でただでは済まない非常識な行動です。
けれどもこの4人は先ほど申しましたように、その半身不随の人を何としても主イエスのもとに連れて行こうという固い決意をもってそれを遂行するわけです。
とにかく彼らは何が何でも連れていく!行きさえすれば、、、何らかの形で答えてくださる。また、決して他人事ではないというその切なる願いがあったからこそ、彼らは他人の家の屋根をはがすことで当然受けるであろう非難や代償をもいとわず力を合わせたでしょう。
主イエスは、「その人たちの信仰を見て、半身不随の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言なさるのです。
この4人のいわば信仰に担がれ、イエスさまの前に出たこの人の心中はいかばかりであったことでしょう。
当時のユダヤの社会は、病は罪深いから、罪の結果であるというような言い伝えや迷信を信じる人が多かったのです。そうした考えにはまれば、あのことをしたからか、それとも何らかの因縁によって神の呪いと罰を受けているのだろうか。自分が悪いのか、それとも父祖の罪のためなのか、と心が沈みこんでしまいます。きっとこの人の抱いていた神は怒りと裁きに満ちた恐ろしい存在であったのではないでしょうか。この人は身体的な苦痛に加え、口で言い表わすことができないほどの精神的な苦痛にずっとさいなまれてきたのです。
そういう中で、この半身不随の人の傍らに、なにがしかその人の気持ちに寄り添い、心に留めていた人たちがいたというのは救いでした。
想像を膨らませてみますと、彼らも世間や人から見下され、さげすまされるような痛みやつらさを経験していた人たちであったのではないでしょうか。だから、この半身不随の人の気持ちやそのつらさが自分のことのように感じ、深く思いやることができたのではないでしょうか。何より彼らは主イエスと出会い、希望を見出していました。この4人の姿を、主イエスは「信仰」だとお認めになられたのです。
ここに「福音を共に生きる」、いや、「生きようとする人たち」の姿があります。
さて、この4人と対照的だったのが律法学者たちでした。主イエスが半身不随の人に罪の赦しを宣言すると、彼らは動揺し始めます。「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」とそう考えたからです。神だけが罪を赦す権威を持っておられるのに、祭司ででもないこのイエスが赦しの宣言をするなんて考えられないと思ったのです。罪の赦しは、そもそも神の前に罪を贖うための動物のいけにえを神に献げ、祭司がそれを確認してから罪の赦しが宣言されていたのです。
本来ユダヤの律法は、神がユダヤの民に祝福の道を歩むために与えられた戒めや決まり事であったのですが。それがいつしか人の手によって本来の意味合いを無くすほど、単なる社会儀礼や社会通念となり、皮肉なこと律法に詳しくなればなるほど、それを守らねばという思いに駆られ、それが自分だけでなく人の心をも支配し、縛るものとなったのです。宗教者であった一部のファリサイ派や律法学者たちは主の愛と隣人愛に仕える律法の精神から離れていたのです。
彼らは、自分たちの目の前におられた罪の赦しを宣言なさったイエスが、神の子、救いの主、人の罪を赦すことがおできになるなど知るよしもなかったのです。律法学者たちの持つ正論が、主イエスの「罪の赦し」を拒むというねじれを引き起こしました。主イエスは、そんな彼らの理屈や論理、知識や慣習でもって人を支配し、縛り、見下し、切り捨てようとする頑なさを、霊の目で見抜いていました。
これは信仰生活が長くなって来た者たちへの警告でもあるでしょう。信仰が長くなればなるほど自分はよく分かってくるような気になるものです。自分の考えや学びは正しい、間違っていないという固定観念を持ち、主の御言葉に耳を傾けていく機会を失ってしまうことも起り得ます。そのように陥らないために、いつも幼子のように御言葉に聞くことが大切です。
さて、本日の箇所で興味深いのは、半身不随の人に対して身体のいやしでなく、「あなたの罪は赦される」と宣言なさったことです。皆さんも常識的に考えれるなら、順番が逆ではないかと思われるのではないでしょうか。
この人にとってまず必要なのは、目に見えるかたちで少しでもいやされること。そしたら信じる。そう考える人は多いでしょう。ところが主イエスは、「あなたの罪は赦される」と言われたのです。
すると、この主イエスの言葉に疑念を持った律法学者たちに対して、「罪は赦される」と言うのと、「起きて床を担いで歩けと言うのと、どちらがやさしいか」と主イエスは逆に問いかけます。
皆さんはどうお思いになりますか?
安易に「歩け」と言うのなら子どもでも言えるでしょうが。「あなたの罪は赦される」なんて人に言えるものではありません。
聖書は、たとえ病気が治ったとしても、健康に生きていけても、罪が赦されない、すなわち、すべてを創り、生かしたもう神さまとの関係が回復されない状態のままであるのなら、真にいやされたことにはならない、と語るのです。
この半身不随の人にとって、まさにその神の愛とゆるしを受けとることができるか否か、それこそがいのちに関わる大問題であったのです。
先ほど、罪の赦しには、あがないの献げものによって赦しが宣言される話をしました。
主イエスはその人間の根源的いのちに関わる救いのために、十字架にかけられて死なれたのです。この罪の赦しこそ、神に創られ、生かされているすべての人にとって根源的ないのちの問題なのです。それを十字架の死を通して拓かれたのです。
10節「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。
「罪を赦す権威」。世にある権威と言えば、力を振るう権力者をイメージする方もおられるでしょう。
けれども主イエスの罪を赦す権威は、神の子、イエス・キリストのいつくしみの愛、そのあがないによって顕わされるのです。神の子イエスが、人の姿となって地上に生まれ、すべての人の罪の代価を十字架に磔になって支払われた神の愛。これこそが主イエスの罪を赦す権威の確証であります。
罪の赦しは、今日のところで一人の半身不随の人に焦点が向けられていますが。実は、その周りにいたすべての人たちの第一義的、救いと解放となるよき知らせ、福音となりました。
主イエスは人の痛みや病の苦しみをご存じのお方です。ご自身も病を知り、辱めを受け、茨で突き刺され、槍で突かれ、野さらしにされて死なれたからです。しかし、その主イエスは死から復活されました。
私たちもそれぞれに抱えている問題がございます。いやされることを願い、またとりなし、主なる神さまに祈ります。また、その弱さの中で自らを省みて、「罪のためか」と苦悩し、苦痛をおぼえることがあるかもしれません。しかし考えてもそのような原因は人にはわかりません。
私たちも担架で運ばれてきた人のように、主イエスの温かなまなざしに、また、赦しの宣言による神との和解の福音に与りましょう。そして、あの4人の主イエスの福音を共に生きようとした人たちのように歩んでまいりましょう。
今日は、「福音を共に生きる」と題し、御言葉を聞いてきました。そこには主イエスが私たちと共に生き、お働きくださっておられるという大きなお支えと御恵みを頂いていることに感謝でいっぱいです。主イエスは私たちがいやしと解放に与り、福音を共に生きる喜びを見出すよう願っておられます。私たちの「いのち」は、主なる神さま御手のうちにある。主に生かされているということを知り、日々の恵みを数えながら、人生を歩みゆくことこそ、幸いなことではないでしょうか。
主イエスの招きに応え、今年も救いの神、主と共に歩んでまいりましょう。