礼拝宣教 Ⅱテモテ2章1-13節 2026/6/14

 

本日は先週に引き続きテモテへの第二の手紙2章より、お言葉を聞いていきます。

前の1章15節以降には、厳しい迫害に遭い、キリストへの信仰を棄てパウロのもとから離れ去った同胞たちがいたことが明らかにされています。その一方で、パウロを励まし続け、ローマに護送されたパウロを探し出し、最後は捕らえられて殉教の死を遂げたとされるオネシフォロについて知ることができます。

主の福音を伝え、証しすることが非常に困難な時代の中で、パウロはこの2章の冒頭でテモテに向け、「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(1)と、呼びかけます。若き牧会者テモテは起こっている諸問題の数々に疲れ、弱くなっていたのです。そこでパウロは忠実な主の働き人についてテモテに伝えようとしたのです。

 

パウロは、2節「わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい」とテモテに言います。

エフェソの教会において孤軍奮闘し、問題を一人で抱え込んでいたテモテでした。エフェソの教会には長老たちも幾人かいたわけですが、パウロはテモテにその働きを託していったように、テモテにもエフェソの教会にいたキリストの福音に対して忠実な信徒と働きを共にし、託していくことが大切であったのです。テモテは確かに主の良き働き人でしたが、そのバトンを一人で握しめている限り、次の人たちに渡すことはできません。それではテモテがいなければなりたたなくなってしまいます。

この私たち大阪教会においても、このことは大事なメッセージとして語りかけられているように思います。

 

さて、パウロはテモテをはじめ忠実な主の働き人について、「兵士」「競技者」「農夫」を例にあげ、説いています。

まず、兵士ですが。この兵士は、その戦いを果たすために召集され、雇われている兵士のことです。彼らは他の仕事やそれ以外の事に気を取られることなく働き、務める使命があったのです。招集者が託した目的にそって兵士としての任務に集中し、招集者の意図に適うように努めるのです。

キリスト者もまた、主の恵みによって選ばれ、救いに与る者とされていますが。それは、キリストの福音とその信仰を守り、証しし、伝えていくために召集されているのです。これは、キリストの十字架の死と復活を通して賜った朽ちることのない「命の約束」に基づくものであります。

この命の約束の福音に生きる者にとって、何事をするにも、罪と滅びから救い、解放し、召し出してくださった主の御心がどこにあり、何が主のお喜びになることかに思いを向けていく。そこにキリストの忠実な兵士の姿があると、パウロは言っているのです。

この点においては、キリスト者であってもいろいろな人間関係や諸々の事柄に気持ちが行ったり来たりして思い煩い、心定まらず、弱くなることがあるかも知れません。人間の心は揺れ動きやすく、弱いものです。また、信仰生活に慣れて当たり前のようになってしまうと、主の救いの恵みの尊さやその重みを感じられなくなり、感動や喜びが湧いてこないということも起るかも知れません。

まず自らの心を主に向け、心開いていくことが必要です。自分一人の力で頑張ろうとしても難しいのです。

そこで助けとなるのが、キリスト者には、キリストの体なる教会が与えられているということです。まず主の御前にいで、祈り、共に主を礼拝する。そこに聖霊が豊かに働かれ、力と助けとが与えられます。また、共に主に祈り、交流することを通して、喜びと元気を戴く経験が与えられます。信仰の経験を重ねていくことが大切です。

 

次に、パウロは「競技に参加する者」を忠実な主の働き人にたとえて説きます。

この競技は、地域や時代状況から古代ギリシャのオリンピックを重ねられているようですけれども。

パウロは「競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません」と述べます。

オリンピックの競技には、それぞれの規定やルールに則って行わるのが、現代も大前提であります。その競技の規定やルールも時代や国々、又競技者の状況に応じて、更新されているのもありますけれども。競技者が勝利して金メダルが確定しても、もし、その規定やルールに違反があった場合は、金メダルとその栄誉は剥奪され、失格となります。競技に参加する競技者は皆、その規定やルールを守らなければなりません。

忠実な主の働き人には、Ⅰコリント9章にあるように「朽ちない冠」(24)ヤコブの手紙1章には「約束された命の冠」が与えられると記されています。この「冠」を受けるためには、あらゆる罪の誘惑と欲望から身を守り、節制していくことの大切さが両書に説かれています。

その目的は、まさに「朽ちない冠」「約束された命の冠」、その「命の約束」に与ることにあるのです。キリスト者にはその大いなる目的があるから、平々凡々な日常であっても、又試練の時においても、変わることなく主のこの福音を喜びとし、節制して励んで生きることができるのです。

 

先日、Iさんのご自宅を訪問させていただく機会がありました。その時はご長女の方も同席してくださっておられましたが。Iさんが、単調直入に「キリスト教の葬儀について、準備の勉強会はないのでしょうか」とおっしゃられたのです。「結婚式をキリスト教で挙げる時には準備のための勉強会をするでしょう、それなら葬儀に際してもあると思いお尋ねしました」ということでした。今までに、このように言われたのは初めてでしたので、思わずハッとさせられました。しかしよくよく考えますと、ほんとうにIさんのおっしゃっていることって、まだ先のことかも知れないと思っていても、健やかなときも、病めるときにおいても、神さまと私との関係を確認し、自分の今の歩みを点検していくうえでとても大事なことであると、改めて教えて戴いた思いでした。

 

パウロはさらに、「農夫」をたとえにしながら、忠実な主の働き人についてこう説いています。

「労苦する農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです」。

この「労苦」の原語は、「骨を折って働く」との意味があるとのことです。以前、福岡のある教会の牧師をしていたとき、もう30年以上くらい前になりますが。私が少年時代からお世話になった母教会の牧師で、もう80歳になられる自称、耶蘇爺(やそじい)と申されるA牧師を招いて特別礼拝がもたれたのですが。先生はその30日前足を骨折なさったのですが、やっと退院することができたそうで、「行くよ」と言われ、その特別礼拝の当日は、なんと松葉杖を片手に握りながらご登壇くださったのです。その時のメッセージタイトルは「骨折りの人生」と自らつけられて、笑わせてくださったのですが。とにかくジョークとユーモア-のセンスに長けておられ、先生の礼拝説教はいつも伝道メッセージでした。その数年後主のみ許にのぼっていかれましたが、「骨折りの人生」というタイトルは忘れられません。労苦のない信仰生活は塩気のないパンと同じだと思います。

話を戻します。農夫は、土を耕し、種を播き、水をやり、芽が出れば害虫や雑草を取り除くといった一連の労苦を怠ると収穫に与れません。収穫の分け前に与れるのは、骨を折って働いてきた農夫です。

福音の種を労苦しながら播き続け、たましいを刈り取るため労苦を惜しまない忠実な主の働き人は、たましいの刈り取りの時、主と喜びを共にすることができるのです。

聖霊によって主イエスを信じる信仰が与えられ、主のみ救いに与ったキリスト者は、次の人にこの福音を手渡していくための福音の種まき、福音の証し、そのほかにも具体的な働きを主がそれぞれに託しておられます。先に主のみ救いに与らせていただいた者は、忠実なキリストの兵士、命の約束を目指す競技者、たましいの刈り取りを主とともに喜ぶために労苦する農夫として、私たちも喜びと希望をもって歩んでいけますよう、主にあって導いていただきましょう。

 

最後に、パウロは本日の11節以降において、「私たちは、キリスト共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」と主の福音に与っている事の証明について述べています。

パウロはローマの信徒への手紙6章でも、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(5-6)と、同様のこと言っています。

この「キリストと一体」というのは、「結ばれる」「継ぎ合わされる」という意味です。それはキリストのうちに私がいる。又私のうちにキリストがおられるということです。神学者であり中国の伝道者であったW師は、一人の兄弟のバプテスマに際してそのことを説明する折、彼の前におかれていた紅茶に角砂糖を入れ、それをかきまぜて2~3分経ってから、彼に「紅茶と砂糖の区別ができますか?」と尋ねたそうです。その兄弟は「いいえ、あなたが一緒になさったので、溶け合ってしまいました。区別がつきません」と答え、「キリストに結ばれて、その死の様に等しくなる」「キリストと決定的に、しかも密接に結合されている」ことを理解した、と著書に書かれています。

キリスト者は、キリストと共なる死にバプテスマされ、そのキリストと共に新しい生命にあやかるものとされているのです。あのゴルゴダの丘で、キリストが十字架につけられた時から2000年が経過し、地理的、文化的な隔たりがずいぶんあるわけですから、キリストと私が一体とされたなどと言いますと、怪訝な思いをされる人もいらっしゃるでしょう。しかし確かに、キリストは歴史において唯一度の決定的なとき、神の救いのご計画によって全人類の罪に対して死なれ、さらに三日目に復活なさったのであります。この福音を信じる者はすべて救われ、キリストと共に新しい命に与っているのです。

バプテスマを受けながらも、まだ自我への執着、神の生命の木ではなく、自我を選び、自我の思いを押し通してゆく罪の性質に引きずられ、こうあるべきという自己主張を貫き、人を裁き、神の恵みを損なっている状態から抜け切れずに、真に救いの喜びと感謝をおぼえる事ができないなら、それは誠に残念なことです。キリストと共に罪に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいない。主と共に生きる新しい生命に生きられません。そこに真の救いと解放はありません。それは信仰の年月とは関係ありません。又、奉仕の数で計れるものでもありません。唯、「罪に死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていく」。キリストと共に、その感謝と喜びこそが、日常の生活に証しされることを主は期待しておられます。この礼拝から私たち一人ひとり主に立ち返って、「キリストと共に」新たに歩みだしてまいりましょう。

 

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