礼拝宣教 Ⅰテモテへの手紙1章12-20節
本日からテモテへの手紙から御言葉に聞いていきます。この手紙も先週まで読んできましたテトスへの手紙と同様、「牧会書簡」と言われています。信仰が与えられた人たちをいかに教え、導き、キリストのからだと言える共同体を建てあげていくか。ここには具体的に説かれています。
前回はクレタの教会を託されたテトスに語られていましたが。この手紙はエフェソの教会の伝道と牧会にあたっていたテモテに宛てたものでした。テモテは、ギリシャ人の父とユダヤ人の母の国際結婚で生まれた子でした。母は敬虔なクリスチャンであり、祖母と共に、テモテの宗教的な成長に大きな感化を与えたのです。
皆さんの中には、教会はじめ、それぞれのご家庭で、あるいはミッションスクールで、礼拝、聖書、祈り、賛美をとおして、神、信仰、聖書について、又生き方やについて、幼少期、青年期から触れ合う機会があって、クリスチャンにならたれた方もおられるかと思います。コヘレトの言葉12章には「青春の日々こそ、お前の創造主に心を留めよ。」とございます。
テモテは母と祖母の厚い祈りと宗教教育によって信仰が継承され、クリスチャンになったのです。使徒現行録によると、「テモテが、ルステラ、イコニウム地方でも評判の良い人であった」とあります。クリスチャンとして彼は一般の人々からも信頼を得ていたのです。
そのテモテを使徒パウロは2回目の伝道旅行の途上、伝道チームの一員に加えたのです。
それから数年後、年若い青年テモテがエフェソの教会のリーダーとして遣わされることになります。
本日の1章3-11節には、そのエフェソの教会が抱えていた問題について、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心奪われている」人々のことが書かれています。彼らはここにあるように「信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こしていた」のです。彼らの興味は、だれがどういった血統で、どのくらい正当な祝福を受け継いでいるか。正当な人に近づくために割礼を受けるよう勧めたり、律法の祭りのしきたりを行うよう誘い込む人もいたのです。
年若いリーダーのテモテは、そういった問題に翻弄され、頭を抱え、悩み、心痛めていたのです。彼はエフェソの教会での働きの困難さを痛感し、できればエフェソから離れたいと考えていたようです。
そんなテモテに対してパウロは、「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです」と、5節で述べます。清い心と正しい良心など堅苦しく聞こえるかも知れませんが、パウロの目的ははっきりしていました。それは、「神の憐れみ」を受けた者として、キリストの愛を目指すものであったのです。
パウロは、テモテはじめ、エフェソの信徒たちの人たちが正しい信仰の理解を得て、日毎感謝にあふれ、救いの主なるキリストに倣い、神の愛の証し人となって生きることを、心から願っていたのです。
さて、先ほど読んでいただいた12節以降で、パウロは自らの恥をさらしながらも自分の過去について記しています。
13節「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」。
キリストと出会う前の彼は律法にがんじがらめで、神の憐れみを知らず、キリスト教会とその信徒に残虐な行為をなした人でした。そのような彼の行為は、自分では正しいことをしている、間違いという思い込みによって為したこと。あるいは、キリストを知らなかったために行ったことだと言うのです。しかし、そういうことって他人事ではありません。私はどうだろうかと問い、気づくことが大切です。人を責める前に本当に責めるべきことか考えてみる。正しさを主張する前に相手の状況やおかれている立場を考えてみる。違った角度から見つめ直して見ることができると、気づきが与えられることもあるでしょう。
パウロは自分が如何に自分の考えに囚われて、人を責めて、神の御心に反していたかに気づくことができました。それは、キリストの十字架を通して現わされた「神の憐れみ」と出会ったからです。そこで彼は自分がどのような者であるかを魂の底から思い知らされ、神に立ち返り、キリストによる救いを受け入れたのです。
13節を見てみましょう。「神の憐れみ」は、「赦しの恵み」であることがわかります。
知らなかったとはいえ、自分が犯した罪。神の御心がわからず、自分を押し通して暴力を振るい、圧迫し、迫害する自分。そんな自分に気づかされた時、その許しがたい大罪についてさえ、キリストの十字架によるあがない、それが自分のような者の「罪の赦し」のためであったと、主の恵みによって救われるのです。
こうしてパウロは、14節にあるように「主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」と感謝するのです。
彼はこうした自分の経験から、15節にあるように「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」と確信しました。それは「真実であり」、どれほど価値あることでしょうか。
「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」これはパウロ自身にとって否定のしようもない真実でありました。にもかかわら、救われた。彼の存在そのものこそが、神の憐みを証する見本なのです。
私たちクリスチャンもそれぞれの状況は異なるかも知れませんが、共通しているのは、みな神の憐れみにより救われているという驚くべき事実です。だからこそ、「唯一の神に、誉と栄光」があるようにと、ほめたたえつつ、主の恵みに応えて新しく生きる者とされているのです。
これらのパウロの証言は、様々な問題で悩み、苦しんでいたテモテに大きな励ましとなったことでしょう。パウロを強くしてくださった主が、テモテをも強くしてくださるのです。
自戒の込めて思いますのは、牧会者として自分の弱さや限界、無力さを知らされる時があります。そういう時に、それを人の前にさらすのは恥ずかしいこと、又、立場上よくないだろうと、自分の内に抱え込んでしまいそうになることがあります。けれども、そういうときこそ、同じ1つの信仰を生きる皆さんに、自分を開示してゆくことが、キリストに従う者としてふさわしいあり方だとわかります。共にキリストの体なる教会が建て上げられていくように努めるということは、自分の立場を守ろうとしたり、自分を正当化しようとすることではなく、むしろ心砕かれ、神の憐れみによって救いを受けた者として謙遜な思いを頂いて、信仰から生じる愛に生きるようにと、招かれているからです。こうした相互の牧会こそ、万民祭司を掲げるバプテスト教会の姿と言えましょう。
さて、この1章を締めくくるにあたって、パウロは直接的にわが子のようにテモテに向かって勧めます。18節「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます」。
その命令とは、テモテに対してエフェソの教会に留まって牧会を続けるようにということでした。テモテをエフェソの教会の牧会者として神がお立てになり、教会の長老たちがテモテの上に手を置いて祈った時、預言によって与えられた「あなたの内にある恵みの賜物」(4章)。それは人の思いによるものでない、救いの主なる神が与えられたものであります。その恵みの賜物があることを忘れずに、引き続き務め励むようにパウロは勧めます。それは私たち一人ひとりにも「神の憐れみ」によって与えられた「赦し」と「救い」の賜物であります。私たちもまた、その恵みの賜物によってしっかりと立ち続け、キリストのからだとして生きてゆくことが、神に期待されているのです。
さて、パウロはもう1つ大切な事を語っています。
それは、19節です。「信仰と正しい良心とを持って。」と勧めます。
これも5節の「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」という、その「神の愛に生きる」という目的が語られているのですが。
ここではさらに、その「信仰と正しい良心の礎」となっているものに思いを向けるようにと、パウロは強く勧めているのです。
それは、神の赦しと救いの恵みに気づき続ける、日々立ち返ることの重要性です。信仰と正しい良心を侵食している働きに気づかず、破綻してしまうことも起こるのです。人間は弱くもろい者です。日々私たちの思いを意識的に恵みの主に向けていくことがなければ、生活や仕事に追われる中で流されていくでしょう。常に「神の愛、キリストの恵み、聖霊の交わり」のもとに身をおくことです。日々の生活のどこかで主の恵みを覚え、祈り、日毎の糧である聖書の言葉に与り続ける「信仰と正しい良心」の養いが私たちに必要なのです。
「正しい良心」とは何でしょうか?
良心の問題と言っても、人それぞれの捉え方があるでしょう。何を正しいとするかも異なる場合があります。それぞれが正しいと思うこと、自分はこう生きていきたいのだ、ということを主張し合えば、摩擦や分断が生じるばかりです。そこで大切なのは、聖書が説く「正しい良心」ということなのです。それを使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙1章9-10節で次のように祈りの言葉で言い表わしました。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」。
それは、相手を思いやることの想像力であるでしょう。又、神の前で、何が本当に大切にされなければならないことかを、理解しようとする心です。私たちはそういう経験を意識的に積み重ねてゆくことで、人の感情を超えた「神の愛」を学び、ゆたかな恵みに与る者とされるのです。
そのように聖書の御言から、神の愛に応えて生きるにふさわしい「信仰と正しい良心」をいただくことができます。1人で聖書と向き合い祈る時はもちろん大事ですが。教会に招かれた様々な人たちと一緒に聖書の御言に聞き、分かち合う学びや御言の証、様々な信仰の経験の出来事を通して、互いにその「信仰と正しい良心」を養われていくことがとても大切なのです。
神さまは私たちの教会に新しい事を、様々なかたちで日毎起こしてくださっています。それは良いことばかりではなく、課題もありますが。しかし、それはむしろ活きた教会であるしるしです。
「信仰と正しい良心」は、課題や異なる意見や違いがある中でも、主にあって互いを尊重しつつ、キリストの愛、その御心を求めていく中で、本当に重要なことが見分けられる者とされていくのです。確かなる信仰の一歩一歩を、共に歩んでまいりましょう。