礼拝宣教 エゼキエル書1章1-3節、2章1節~10節、3章1-3節

 

8月は平和月間として覚えつつ、礼拝を捧げてまいります。今も世界各地において民族紛争、人権侵害、人種差別が後を絶ちません。非暴力によって平和を訴える民衆に対して銃口が向けられ、暴力と弾圧が繰り返されています。ミャンマーではコロナ感染によって命の危険に直面している人たちが多い中、軍事政権が酸素ボンベを業者から買い占め、民衆に渡らないようにしているというむごい行状を報道で知り、唖然としました。

私たちの国においては、6月「沖縄ぬちどぅ宝の日」を覚えましたが。2年前米軍基地から飛び発ったオスプレイの機体の一部が沖縄バプテスト連盟の教会付属保育園に落下し、米軍が毎日住民のいる上空に爆音を轟かせ低空飛行している現状の改善を、沖縄の方々とともに嘆願署名を通して日本政府に訴えました。ところが改善されるどころか、今も米軍機の低空飛行による恐怖と騒音に、園児たちはじめ、先生方、親御さんも日々悩まされている実状が、園長を兼任される牧師から映像とともに報告がなされ、その深刻さを痛感しました。「沖縄から宣教を考える会」が諸教会有志によって立ち上げられており、ニュースレターが届いています。

教会がこうして関心をもち平和を願うのは、神に造られた同じ人として、又、人類の罪を憂い、嘆かれる神の愛と憐みを知らされた人として、無関心ではいられないからです。

本日より礼拝では旧約聖書のエゼキエル書より、神との交わり、又神の平和が損なわれていった状況の中で、主なる神はどのように預言者をお遣わしになられたかを、御言葉から聞いていきます。

エゼキエルは、南ユダ王国の崩壊を目の当りに経験した後、バビロンに捕囚として連れていかれます。民族としての基盤が大きく揺らぎ、失われそうな状況にあって、預言者として立てられました。エゼキエルという名前は原語で、「神力づけ給う」という意味があります。それは預言者エゼキエルとしての活動のすべてが、彼の内に注がれた神の霊に力づけられ、成し得たことをその名が物語っています。

今日本の状況もコロナ禍が長引き、先行きの見えないような状況が続いておりますが。そのような時だからこそ、私たちは主である神を第一とし、御言葉に聞き、神に信頼し、従っていくことが求められています。そこに、どのような状況下にあっても「力づけ給う神」の助けが来るからです。

さて、先ほど1章の始めと、2章1-13節までの「エゼキエルの召命」の記事が読まれました。今日はそこから「恐れてはならない」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

祭司の子であったエゼキエルは多くのユダの人々とともにバビロンの国に捕囚民として強制移住させられます。ただ捕囚とはいえ、ある程度の自由があり、仕事や物の売り買いも許され、日常の生活はできたようです。とはいっても、エゼキエルは祭司の家系でありましたから、深い心の内には「異教の地でもはや神は民をお見捨てなったのか。もう神殿で礼拝することも叶わないのかと」、将来に望みをもつことができなかったのかも知れません。

しかし、そのような彼に神のお言葉が臨み、彼の上に神の御手が臨みます。エルサレム神殿から遠く離れたバビロンのケバル川河畔で、彼は懐かしくも畏れるべき神の顕現とその栄光を見るのです。圧倒されひれ伏すエゼキエルに、1節「『人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。』彼がわ語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた」とあります。

神の召命によって預言者とされるエゼキエルですが、彼もまた人にすぎず、唯神の霊によってのみ、その務めを果たすことができるのです。

神ならざるものを拝する異教社会に同化され、吞み込まれようとしている同胞に警告を発しようにも、人の言葉ではできません。しかし、神の臨在の中で神の御手が臨み、神の語りかけを聞く中で、エゼキエルのうちに神の霊が入って、彼をその足で立たせたというのです。神のお言葉と神の霊こそが、人の子にすぎないエゼキエルを立ち上がらせるのです。

先週まで礼拝で読んだヤコブの手紙に「御言葉を聞くだけで終わるのではなく、行う者になりなさい」とありましたが。御言葉には、それに聞き従おうとする者に、神の御心を行って生きるよう立ち上がらせる力があります。そのような御言葉の実践こそ、神の御心にかなう私たちの信仰の証しとされていくのです。人間的な自我の思いや感情に捕らわれ、振り回される生き方でなく、御言葉に聞いて「自分の足で立つ」信仰者は、しっかりした土台に建てられた家のようです。嵐が来ても倒れません。御言葉と神の霊に立ち上がらせて頂く信仰者の歩みを、この嵐のような時代にあっても日ごとに努めていきたいと願うものです。

さて、神はエゼキエルに使命をお与えになり、3節「わたしは、あなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」と仰せになります。

何度も「反逆の民」という言葉が繰り返されていますが。それは、主が愛し、選び、導かれたイスラエルの民のことです。神への背きの罪は先祖の時代から続き、遂に南ユダ王国とエルサレム神殿の崩壊を招くことになります。さらにバビロンの捕囚となって、なお神に立ち返ることに心鈍く、神に反逆の民とまでいわしめる彼ら。罪に滅ぶほかないようなその民を、神は嘆き、憐み、「わたしは逆らった反逆の民に遣わす」とエゼキエルをお送りになるのです。深い神の愛と忍耐がここに示されているように思います。

神はエゼキエルに6—7節「あなたはあざみと茨に押しつけられて、蠍の上に座らせられても、彼らを恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」とお命じになります。

エゼキエルの使命は、「彼らが聞き入れようとも、拒もうとも」、神のお言葉をまっすぐに語ることでした。相手は神に背を向ける人たち、自分に都合の良い道に向かおうとする人たちです。相対すれば「あざみと茨」に押しつけられるというような痛手、又「蠍の上に座らせられる」というような危険が待ち受けているかも知れません。それでも人を恐れることなく、御言葉をまっすぐに語れ、と神はお命じになるのです。

このところのメッセージを読むとき、それは司祭、牧師といった教役者に限られたことのように受け取られるかも知れませんが、そうではありません。この社会で神のお言葉にまっすぐに聞き従っていこうとするなら、大なり小なり様々な葛藤と霊的戦いが内に外に起こります。そう申しますと、ちょっとたじろぐような思いが起こるかも知れません。しかし聖書は、そのたじろぎ、気の引けるようになるエゼキエルの前に神の御手が差し伸べられ、そこに巻物があったと記します。そして神がエゼキエルの前にそれを開くと、その表も裏も「哀歌」や「呻き」と「嘆き」の言葉がびっしりと書かれていました。それは愛する民の背信と反逆に対する神ご自身の哀歌、悲しみの歌であり、7章以降に示される「神の怒りの日」に向けた呻きと嘆きであるように思います。神は神ではないものを拝し、それらにより頼む民をねたむほどに愛し、嘆かれるのです。

神は「この巻物を食べ、行ってイスラエルに語りなさい」と言われ、エゼキエルが口を開くと、神はこの巻物を彼の口に入れ、食べさせて「腹を満たせ」といわれました。「それは、蜜のように口に甘かった」とあります。どんなに厳しいお言葉も、その根底には密のように甘いというような神の愛が流れているということです。

エゼキエルが神から聞いて伝えた言葉は、エルサレムから遠い地に捕囚として連れて来られたイスラエルの民にとって大変厳しいものでありました。けれどもそれは愛する民のひとり一人が、罪と決別し、深く悔い改め、今一度立ち返ってほしいという、神の慈愛から出たものなのです。まさに、巻物にびっしりと書かれた「悲しみ」と「嘆き」と「呻き」の言葉こそ、神の愛の賛歌なのです。

本日は「恐れてはならない」との題で、御言葉に聞いてきました。真に恐るべきお方は、すべてを創造し統治される神、今も生きておられる主なるお方です。今のこの時代も不安と恐れが渦巻いています。しかし、最も恐るべき罪による死と裁きから私たちを救うために、十字架であがないの業をなし遂げてくださった生ける神の御言葉、主イエス・キリストこそ神の愛であられます。「愛には恐れはない。完全な愛は恐れを締め出す」とはヨハネ第一の手紙の4章の言葉ですが。その愛によって恐れや不安から解放され、神が与え給う救いの道、その人生を歩み通してまいりたいと願うものです。

最後にローマの信徒への手紙8章の「神の愛」の御言葉を読んで今日の宣教を閉じます。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか・・・わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。アーメン。

今週もコロナ禍や猛暑の中に如何にありましても、真の救いと希望の神のお言葉にまっすぐに立って歩んでまいりましょう。