弁護士は離婚相談士に名称を変え、弁護士を作る費用の還付を、離婚した人達にお願いできないものだろうか?
余裕が出来てからで結構なので
つづき
離婚問題について思うこと
まだありました。
結局は社会問題ではないか?というのとも似てますが
特に、今住んでいる市(もう出ようかと思っているが)に居ると思うのですが、本当に社会がなくて、その代わりに地縁血縁のコミュニティだとか、家族だとかが存在している感じで
離婚に至る事情も、元々育った家庭が抑圧的だったとか虐待やモラハラがあり、そのせいでモラハラ亭主に気付かず捕まって支配されてしまった・・・とか
最近 不貞隠しか何かわかりませんが、このような事を唱える人たちもいるわけです。
実際、抑圧的支配的な家庭もあるでしょうし、色々だと思います。
実際居るのを自分は実体験としても掲示板上の情報交換を見ても知ってるわけですが
そのような色々な問題を、社会的な解決ではなく、結婚に追いやってしまうものがあるから、問題夫婦も増えて離婚になるのではないかと
やっぱり社会問題なんじゃないかと
で、結局、恋愛や結婚に追いやる前に救済を考えてないのは
ぶっちゃけ、離婚で儲かるから、そこまで育ててから刈り取るみたいな仕組みが出来ているのではないかと・・・
思ったり思わなかったり・・・
仕組みが出来ていると言っても、作意があってではなく、自然にそうなっているのかもしれませんが
しかし、やっぱり、なぜだろう?
なぜもっと前に啓発しないのだろうと、離婚に関してだけ虐待やモラハラを声高に叫び、DVでっち上げをする人たちを見ていると思ってしまいます。。。
でっち上げに協力してても、女性の味方ではないのではないかとも思います。
なんか、自分の書いたものを久しぶりに読んで、そうだなぁその通りだなぁ、と感心してしまったのですが
他にそういう人はいないかな?
ひろたかさんは自分のブログよくリンクされてましたよね
テーマ 弱者や社会問題に取り組む側の矛盾
http://ameblo.jp/oooquree/theme-10053865616.html
ここの中の これとか
そしてドーキンスへ・・(超長文 前の記事の団体の人とのやり取りで親の愛=エゴだと気付いた話)
http://ameblo.jp/oooquree/entry-11273180185.html
以下コピペ
この後のメールでこの○○会事務局を名乗り責任者は牧師だか神父だか言ってたが実質的には名古屋の○○会の責任者がそのような態度に出られるのは
親の愛 があるからだと思った話になり
親の愛を至高のもののように言うけど
親の愛=エゴそのもの
ではないか?
我が子可愛さは、我が身可愛さから来る自己愛の延長に過ぎなくて親の愛情と言うのは、何かあったら、自分と他人だったら自分の都合や自分の利を優先させなさい、というだけのもので
エゴそのものと言ってもいい
ドーキンスですよ
竹内久美子は、トンでもだが 腐ってもドーキンス!!!
他人と自分だったら、自分を優先 という考え方
当たり前のようで、本音と建て前の兼ね合いなど考えると、当たり前のようで、声を大にして言えなかったりもするだろう
だから、親は大事だ、とか 家族は大事、ということになるのだろう
家族は共通の利害を守る最小限のユニットとして働く存在だから
家族と社会の皮肉な関係というのもあるのではないかとも思う。
社会が社会として機能していれば、家族愛に拘る必要も無いのでは?
イモトアヤコさんが、24Hテレビでマラソンを走る前、家族にマラソン出演を告白するのを取材した場面で、母親が
『誰かに変わって貰えないの?』
と言っていた。これが親の愛なのだ
嫌な事大変な事を他人に変わって貰おうなんて、自分について言ったとしたら、なんて自分勝手で利己的な人・・ということになるだろうに
自分の子に対して言うと親心になる不思議
ドーキンスなだけなのに
貼ろうとした部分 あと、1行だけ入らなかった
使い古された言い方だけど、私たちがDNAの乗り物だからYO
しかし、今 こういうの書くと あれかな
まあいいけど
>社会が社会として機能していれば、家族愛に拘る必要も無い
社会が社会として機能すると、結婚する人も減って、離婚でお金が儲からなくなる。
こことか
我が子可愛さは、我が身可愛さから来る自己愛の延長に過ぎなくて、親の愛情と言うのは、何かあったら、自分と他人だったら、自分の都合や自分の利を優先させなさい、というだけのもので
エゴそのものと言ってもいい
よく言い表せてると思う
入力の時、点を減らしたので、再び句読点を付けた。
虐待の問題とか、社会適応がとか、人とうまく行くとか行かないとか 言うけど
そんなの治療者のために言ってるだけで
社会適応とか、してなくて生活してる人も居る
社会というものの捉え方だろうけど、そういう形の社会参加や適応と捉えれば良いのだろうけど
社会適応してない、さあ治療しよう!という場合の社会というと、集団で働く工場や会社など組織への適応や、そこに適応した人との家庭を作る事だったり
するのではないだろうか?
個人で仕事をしてる人もいるし、もっと他のお金の得方をしてる人も居る
それぞれ適性もあるかもしれないのに
集団や人が怖い人がなぜ怖いか
何かあったら自分を優先させられないから、人から何をされるかわからなくて怖い というのもあるのではないかと思う。
何かあったら自分を優先て、普通にやってて皆気付かないだけで、皆普通にやってるはずだ。
そういう風に自然に自分に合うものが選択できたり、自分の都合を考えられるから、怖くないのだろう。
それが、何かで撹乱されわからなくなり混乱する人もいて、そういう時に治療者も救済者を名乗る者(仕事などで)も、自分の都合しか考えないから、もっともっと病まされて行くのではないだろうか?
家族がない人は、そういう風に付け込まれるんだろう。
社会が無いから。
社会が社会として機能してないから。
私を入院させた精神病院の医師は国立M大学から来てる人でしたが、「あんたがおかしくない事はわかっとる」「ご両親は大変偏った性格」「ここを逃げても水商売くらいしかない」などと言ってました。
入院時「あんたは世間を知らんようやが、法律くらい何とでもなる」と言い放ったくらいでしたから。。。
この人が男の人の象徴に思えて仕方ない
負の面の とか 構造的な歪みの とか言わないといけないんでしょうけど
それをそのままにしてる人たちも、それを認めている事になるのではないかという気もします
恋愛できるかどうかは、構造的な歪みに気付くかどうか ではないのかという気もします。
構造的な歪みに気付く前に先に主観的なものを守るように、恋愛できる人たちはしているのかもしれないと思います。
または、構造的な歪みに具体的に迷惑をかけられないようにしているとか
人の認識というのは、どれだけ客観性を持たせても、主観の域を脱し得ないと思います。
だから、良い目に遇った人は、世の中良いものだと認識しているだろうし、良くない目に遭った人は、良くないと認識してしまうのかもしれないと思います。
良い目というか、
これとこれとこれを見せられたら、こういう構造に気付くとか
そういうのを周囲に外されて来たというか
情報というのは、取捨選択自由なので、嫌だと思う事実ばかり見なくても選択しなくても良いのだし
それがわからなくなってる状態の人もいるから、情報は選んで良いのですよ、とわかるようにするのがカウンセリングなどの療法のはずなのに
自主性主体性を取り戻すというのは、そういうことのはずなのに
それどころか、意思を奪って薬漬け
(薬も悪いものばかりでもないだろうし、使い方だろうけど)
精神病院に閉じ込められ、食事時でも、理不尽に「ここは卑しいもんが多いな!」と怒鳴るという患者虐待という情報を見せられる、選べない
逃げても、そこで延々患者虐待が続いているかと思うと・・・
明るい豊かな(もはやそうでもないが)生活をしている人たちの社会が、あんなものの上に成り立ってるなんて・・・
3154さんも貼っていた精神病院への保険診療の医療費は膨大らしいので
あれに蓋をして明るく暮らして来たから、食べて応援キャンペーンで死んでく人もいるような社会になってしまったんじゃないのかと思います。
メンゲレと批判は基本的に載せないはずのwikipediaにさえ言われてしまってるY教授が言う
「明るくニコニコしていると、放射性物質の害は受けません」
なんか、暗くなりすぎてしまったかも