天皇一族の祖先は東北アジア、朝鮮半島を支配した騎馬民族で、先祖である百済の一派が後に北九州に入り、さらに畿内まで入って来て、日本列島を統一しました。
中国黒龍江省⇒高句麗⇒馬韓{のちに百済}⇒弁韓狗邪(くや){のちに伽耶(かや)任那(みまな)または加羅(金海)}⇒対馬(つしま)⇒壱岐島(いき)⇒末盧国(唐津市) 倭(わ)九州に渡る。

 

日本の呼称が使われ始めたのは7世紀後期で、それまでは倭(わ)国と中国・朝鮮から呼ばれていました。
紀元前10世紀頃から弥生人が朝鮮半島より船で北九州に渡って来て稲作文化を広めました。

朝鮮半島 狗邪(くや)⇒対馬(つしま)⇒壱岐(いき)⇒末盧国(唐津市)
有視界航路図 紀元前10世紀の弥生時代から朝鮮半島と日本を結ぶ最短航路として多くの渡来人が文化とともに日本に流入しました。

(3世紀の朝鮮半島)

 

(4世紀末の朝鮮半島)


馬韓(百済)から、天皇一族は弁韓(伽耶)に移動し勢力を蓄えました。
弁韓の狗邪は、弥生人たちを倭国へ送り出す基地で、豪族たちの司令部の機能を持つ都市でした。
中国・朝鮮半島の弥生人の豪族たちは、倭国の新しい領土と稲作の富と民を求めて、狗邪(くや)から船出して行ったのです。
中国や朝鮮半島の新しい情報は、弁韓の狗邪を経て倭国の豪族たちに伝えられて行きました。

また倭国へ渡った豪族を頼って、多くの渡来人が日本に渡り、外交や参謀の中枢として外交文書の漢文作成や軍事に携わりました。
その渡来人たちにより、朝鮮の文化(衣服・建築・道具・古墳・文字・武具)が日本に大量に流れ込んだのです。
韓国の釜山近辺の旅で、日本に渡ったと思われる古墳や装飾品などを多数見学する事ができました。

倭国の最南端は狗邪(くや)すなわち加羅(任那みまな)と魏志倭人伝にあります。当時、狗邪は日本の領土とみなされていました。
それだけ倭人の朝鮮半島との繋がりは濃かったのです。

倭国が狗邪(くや)すなわち任那(みまな)を我が国の領土と考えて、その支配を固執し、ここに日本府を置いて朝鮮経路の足場としたゆえんです。
弥生時代から古墳時代に、倭国が鉄の輸入を朝鮮半島南部に依存していた事から、後代になってもこの鉄の拠点は重要でした。
鉄は武器と農具に欠かせない必需品だったのです。
6世紀中頃に国内で砂鉄による『たたら製鉄』が始まるまで、朝鮮半島に鉄の生産を依存していました。

当時の弥生人の足跡を辿ります。
朝鮮半島の弁韓の狗邪(くや)から船で出港し、対馬から壱岐島を経て北九州の末盧国(みろくに)に弥生人たちは上陸しました。
古代人は有視界航海をして往来していました。
朝鮮半島から対馬は、晴れた日に見えるのです。

 

九州の末盧国(みろくに 唐津市)は日本の稲作発祥の地と言われています。
現在の福岡県糸島市あたりの伊都国(いとくに 魏志倭人伝に記録)に豪族が栄えていました。これらが九州に上陸してからの拠点でした。
市が立ち、交易も盛んだったようです。

 

上図は古代の前方後円墳の分布図ですが、九州・瀬戸内・山陰・大阪平野・中部・関東などに多数の豪族が栄えていた事が分かります。
当時これら200以上の国が存在し、それぞれの豪族が土地と稲作と民を所有して国を運営しておりました。
邪馬台国や出雲の国や大和の国などは、弥生時代から古墳時代まで数ある豪族のひとつでした。
記紀』である古事記や日本書紀に天皇一族を天孫と表現していますので、これ以降、北九州に初めて渡って来た天皇一族のことを天孫族とします。
神話では天孫降臨とありますが、初めて九州・倭国の土を踏んだ天皇の一族が天孫降臨と言えると思います。

 

その天孫族北九州の末盧国(みろくに)の土を踏んだのは紀元3世紀中頃と考えられます。倭国の時代背景と照らし合わせる為に、便宜的に西暦260年に天孫族が倭国に入ったと表します。

 

その当時の九州地方には100以上の国があり、そのひとつの豪族に邪馬台国があり、卑弥呼が女王として統治していました。

 

現在までの研究の結果、邪馬台国・九州説が最有力と考えられます。
それは魏志倭人伝に帯方郡から邪馬台国までの距離12000里が記録されているからです。
伊都国(福岡県糸島市)から邪馬台国までを差し引きで計算すると、千数百里と距離が出ます。これを当時の尺に当てはめると距離が算出されます。

 


唐津市から糸島市まで24㎞で500里ですから、糸島市から邪馬台国までは千数百里で約72㎞になります。邪馬台国は九州の地方政権だったのです。

中国・台湾の考古学者の多くが邪馬台国は九州にあったと考えております。

邪馬台国にしても九州地方の多数の豪族による連合国家でした。
その連合国家が、朝鮮半島南端の狗邪(くや)すなわち任那(みまな)の日本府を経て、中国の魏や朝鮮半島の高句麗・馬韓に使節を派遣したものと考えられます。

 

この当時の地方政権・豪族たちは、例えば九州地方代表の王の称号を得るために、それぞれが魏などへ使節を送り朝献を願い出ていたと思われます。
そのような群雄割拠の倭国の時代に、天孫族は九州へ渡って来たのです。

委奴国王印はその時代(AD239年)に、魏より卑弥呼へ贈られたと云われています。

その卑弥呼が没し不安定な九州地方であった時代に、天孫族が対馬海峡を渡り北九州の末盧国(みろくに)に降り立ったのです。 天孫降臨です。

 

九州に渡って来た、AD260年頃の天孫族の動きを見ます。
騎馬民族が一挙に何千・何万という軍隊を動かすことは稀です。
彼らは一挙に行くのではなく、少人数で農耕地帯の境界まで行き、そこに三代くらいじっと留まっていて力を蓄えることが多いのです。

 

彼らには征服地の豪族の娘を自分の妻とする習慣があり、しかも、たいてい4~5人の妻を持ちますから一代で人口は飛躍的に増加します。
それが2代~3代となると、たちまち何倍もの人口に増やせます。
馬は4歳で成馬になるから、同様に育成ができます。
これに土着の人間の加勢が加われば堂々たる軍団が成立します。
そのように天孫族は北九州で時間をかけて、兵士と武器・作物を増やしたのです。

 

朝鮮半島南端・狗邪(くや)~対馬~壱岐~末盧国(唐津市)に来た天孫族は、筑紫(北九州)まで来て、そこにとどまって力を養い、そこから瀬戸内海を通り大和目指したものです

 

民族が移住して他種族の土地に入り、そこの原住民の他民族・他種族を征服して、彼らのなかの有力豪族と合作して王国を形成したとき、これを征服王朝国家といいます。
軍事力だけによってではなく、文化的に同化したり、政治・経済的に合作したり、結婚や買収や、盟約や談合や、外交手段などで相手を服属させたり、仲間に入れたりする無血征服の場合が、古代や異民族間では多いのです。

 

倭人の一般民衆にとって彼らの守護神であった土着の神々や、神権的支配者であった土着の豪族いわゆる国神(くにつかみ)系の豪族を下手に扱うと厄介なことになることを心得ていた天神(あまつかみ)系の天孫族の人たちは、土着の神権的統治者ともいうべき大豪族たちを懐柔し、住民の倭人民衆の納得のゆく方法での支配をすすめました。

 

そのような行き方は、ユーラシア各地・各代の騎馬民族の征服王朝国家では、政治の大原則でした。
そうでなければ異民族支配ができないことは、彼らが長年の経験で十分知っていたからです。

従来の統治者たちに民衆の統治を委ね、征服王朝たる天孫族は、その上に立って全体的に支配したのです。
つまり他種族の豪族が民と土地と穀物を所有し、天孫族は武力を背景に豪族を下に置き、穀物を上納させて豪族たちをコントロールしたのです。

西暦290年 天孫族は吉備(きび 倉敷市)まで侵攻し、吉備の豪族を懐柔し、配下に治め、連合国家を樹立しつつ力を蓄えます。

 

西暦320年 天孫族は大阪平野の河内・南摂に進出し、この地方の豪族を配下に治め、連合国家を拡大しつつ力を蓄えます。
河内に進出した天孫族は、武力による大和の政権奪取は行わなかった。
もっぱら武力を背景とした自分たちの強大さ、優秀さを誇示して、大和などの大豪族の威圧に努め、彼らを優遇・懐柔することによって、その友好と協力を求めたのです。
一方において、大和の大豪族と婚姻などを通じて、親縁な間柄になるように努めました。

そうして、この間に天神系と国神系の大豪族間の合意・合作が成就し、いわゆる大和朝廷が成立しました。

 

西暦350年 天孫族奈良盆地に現地の大豪族との連合国家大和朝廷を樹立します。

 

軍事・外交はあくまで天神系(あまつかみ 外来者・天孫族)たちが握りましたが、財政・民政は原則として国神系(くにつかみ 土着・豪族)たちにまかせる連合政権の統治方式が出来上がっていきました。

 

こうして奈良盆地大和朝廷が成立し、天孫族大伴(おおとも)・物部(もののべ)・中臣(なかとみ)などの随従部族(百済からの豪族・重臣)を率いて大和朝廷に入りました。

 

彼ら天神系の豪族は『』(むらじ)姓とされ、その有力者の大伴・物部の2氏は『大連』(おおむらじ)となりました。

 

これに対して葛城・和珥・巨勢・平群・蘇我(そが)・紀(き)・吉備(きび)・出雲(いずも)などの在地豪族は、みな『』(おみ)姓にされ、その最有力者が『大臣』(おおおみ)となりました。

連と臣とは、連が主として職名にちなんで呼ばれたのに対して、臣は土地の豪族であったから出雲臣(いずものおみ)とか紀臣(きのおみ)というように地名を取ってその姓を称しました。

 

そうして臣よりも勢力の劣る豪族には『直』(あたえ)姓、あるいは『君』(きみ)姓をつけました。
彼らを、そのまま各地方の統治者『国造』(くにのみやつこ)などとして任用しました。

 

このようにして成立した大和朝廷は雄略天皇(ワカタケル)の頃になると、東は毛人(エミシ蝦夷)、西は九州などの大和朝廷の倭人勢力{熊襲(くまそ)・隼人 (はやと)}を征伐して、ほぼ当時の日本列島の統一を実現しました。

 

朝鮮に対しては、任那(加羅)の宮家(みやけ)や百済に対して圧力をくわえてきた高句麗などと戦う決意を南朝の宋に上表するようになりました。

 

ただ大和朝廷は、土地や民・穀物などは豪族が所有し、その臣や国造から穀物を上納させていた豪族中心の連合国家でした。
その後長い年月をかけて、大化の改新(AD645年)で律令制により、天皇家が直接、土地や民と穀物を支配する体制に移行したのです。

 

【年表】
●紀元前50年(BC50)倭人は百余国に分かれ、その一部が楽浪郡に朝貢した。(漢書地理志)
●紀元110年(AD110)この頃倭と韓・濊が弁韓・辰韓算出の鉄を輸入(魏志韓伝)
●AD188 倭の諸国、卑弥呼を共立し女王とする。卑弥呼は鬼道にすぐれ未婚で、弟が国政を助けた。(魏志倭人伝)
●AD239 卑弥呼が大丈難升米らを帯方郡に派遣し魏明帝への朝貢を願う。(魏志倭人伝)この頃弥生時代の後期。
●AD248 卑弥呼没し、男王を立てるも国中服さず。誅殺しあい千余名が殺される。卑弥呼の宗女壱与13才が王となり国中定まる。(魏志倭人伝)
●AD250 この頃より古墳時代が始まる。
◎AD260 天皇一族(天孫族)船で朝鮮半島南端の狗邪(くや)を出港し、対馬海峡を渡り北九州の末盧国(みろくに)に降り立つ。天孫降臨。
◎AD290 天孫族吉備(きび 倉敷市)まで侵攻し、吉備の豪族を懐柔し、配下に治め、連合国家を樹立する。
●AD300 この頃から武具(甲冑)が少数ながら導入される。
◎AD320 天孫族は大阪平野の河内・南摂に進出し、この地方の豪族を配下に治め、連合国家を拡大する。
●AD350 この頃畿内の最有力古墳分布の中心が、奈良盆地東辺(大和・柳本古墳群)から同盆地北部(佐紀・盾列古墳群)や南西部(馬見古墳群)に移る。
◎AD350 天孫族は奈良盆地に現地の大豪族との連合国家の大和朝廷を樹立する。
●AD372 百済肖古王、久氐らを派遣し、七枝刀1口・七子鏡1面などをおくる。(神攻紀52年条)
●AD380 大王墓とみられる巨大前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に分布の中心が移る。三輪王朝から河内王朝への王朝交替説あり。

 

天皇家が朝鮮半島から渡って来たとするこの説は江上波夫先生の説の多くを支持するものです。
江上波夫先生は東京大学教授・上智大学教授・札幌大学教授を歴任した文化勲章受章者です。
著書に『ユウラシア古代北方文化』 『騎馬民族国家』などが有ります。

 

 

 

(北海道在住 峯岸清行)