クリスマスを前に、私の幼き日の忘れられない体験を紹介します。私がクリスマスの主人公であるイエス様と最初にご縁を持ったのは、小学校に入る前の5歳のときでした。

高校の教師であった父の転勤で、その教員住宅に住むことになるのですが、その住宅に一番近い幼稚園がカトリック幼稚園だったのです。

私はカトリック幼稚園でお世話になった園長先生、担任の女性の先生を、昨日のことのように鮮明に思い出しては懐かしみ、慕わしく、恋しく思う心を持っています。

そして、教えていただいたイエス様のこと、イエス様の十字架の死に違和感を感じたことなど、記憶して決して忘れていないのです。

イエス様の十字架の死は、イエス様の悲しみと私の心に込み上げて来る悲しみしか残らなかったので、違和感を感じたのです。

 


 

私は担任の先生が大好きで、母が先生に手作りのものを持って行っては先生を喜ばせてくれるのですが、そんな母と一緒に会話し、先生が喜ぶ笑顔が、時間空間を超越して今もリアルに甦ります。

私は日曜学校にも行くようになったのですが、母は、

「うちは大本だから、行かなくても大丈夫よ!」

未だに、この母の言葉を忘れることができません。違和感を感じたのです。私の親族のすべてが大本の信仰を持っていましたが、

「大本だからどうして行かなくても良いの?」

心の中でずっと、この母の言葉に対して違和感を感じ、納得できなかったからです。

 

 

私がカトリック幼稚園で感じた今も忘れることができない違和感を感じる体験とは、「イエス様の十字架の死」と「大本だからキリスト教の学びの場に参加しなくても良いという母の言葉」、この二つでした。

私のこの体験は、私が成長すればするほど、大本で信仰を持つ父母と家族、親族の信仰にある種の満足感を得ることができない状態になり、私が宗教を超え、国境を超え、あらゆる境界線を超えて、他宗教の門を叩いて交流したり、韓国人の妻と結婚して親族としての血のつながりを持ったり、主義、主張、宗教、思想、人種、国境を超えて、違うものを理解し、愛する一つの原点ともなって行ったのです。

それがクリスマスの主人公であるイエス様との最初のご縁からいただいた私へのクリスマスプレゼントとなりました。そして、大本の真の教えは、宗教の看板が必要なくなり、国境も、境界線もなくなる世の中、地上天国を実現するところにあり、私がイエス様からいただいたクリスマスプレゼントは、大本からいただいたクリスマスプレゼントでもあったのです。