私は若き日に既に遠藤周作の小説「沈黙」を読んでいましたが、映画を観て再び読み直しました。スコセッシ監督がこの小説「沈黙」に深い感銘を受けて映画化する決意をしながらも、実現するまでに28年の歳月が必要であったように、この「沈黙」の中に語り示していたキリストの愛を受け止めて、私の心をその愛で満たすには随分と時間がかかったものだと自らを省みる時間ともなりました。

17世紀江戸時代初期のキリスト教弾圧の下で苦しみ、棄教するポルトガル人宣教師を描いたこの映画には、約2000年前、宗教裁判にかけられ、国家権力によって弾圧され、虫けらのように扱われながら十字架の死を余儀なくされたイエス・キリストがいて、銀貨30枚でそのイエスを売り、裏切った弟子のユダ、誰よりもイエスから愛された弟子ペテロが、イエスの十字架の死を目の前にして、そのイエスを知らないと否認した悲しい姿を、時代と人を変えてリアルに再現させて見せてくれるものがあり、この映画に登場するキチジロー(窪塚洋介)は、まさにその弟子の姿を見せてくれる代弁者でした。
そして、このキチジロー(窪塚洋介)こそ、この映画の原作者の遠藤周作氏、あるいは監督のスコセッシ氏、更に私はもちろん、受け入れることを望むならば、この映画を観るすべての人を代弁させて見せてくれる、その人でもありました。

神が存在するなら何故、神の名を呼び、神を愛する信徒たちのこのような悲惨な惨状に、神は「沈黙」されるのか、棄教した宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)も、その恩師の救済をかけて日本を訪れた弟子、主人公のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)も、身もだえしながら神に問いかけた祈りは、この神の「沈黙」への応答を求める祈りでした。
そしてこの祈りは、この2人だけのものではなく、人間として生を受けた存在の起源までもさかのぼって問いかけ、神は存在するのかしないのか、私は何のために生まれ、生きているのか、私はどう生きれば良いのか、生とは、死とは、死はすべての終わりなのか、他でもないこの私自身が問いかけ、自ら選択をして責任を持ち、築いて行かなくてはならない人生への問いかけでもあるのです。

キチジロー(窪塚洋介)が何度も司祭であるロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)に問いかける言葉があります。「この世には、弱か者と強か者がいます。弱か者はどのようにして生きれば良いのですか?」と。誰よりも救いを渇望するのは、むしろ弱き者なのに、その弱き者が疎外され、身の置き所のない悲嘆を表明して訴える姿があり、この救いと渇きはいつ満たされるのか、満たされるまで決して終わらない訴えが、そこにあるのです。この訴えは、キチジローだけの訴えではなく、わかってみれば誰もが持っている万人共通の訴えでもあるのです。

ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、最後に自分の命よりも大切なものは何か、そして、その最も大切なものを捨てても、それでも守りたいものは何か、その選択を迫られます。神の「沈黙」への訴えではなく、自らの意志で選択し、責任を持ち、行動しなくてはならない自分と向き合うのです。それが、今までの自分の人生のすべてを否定するような選択であったとしても、その選択を決断するロドリゴの姿に、私は涙を禁じ得ませんでした。その選択には「自分」を超えた「愛」があり、神の「沈黙」に対する答えがあるからです。
終わりにロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が、キチジロー(窪塚洋介)に日本語で優しく語りかける言葉があります。
「一緒にいてくれて、ありがとう♪」
私はここに時代が変わっても変わらない、主義や主張、思想、宗教、国や人種の違いがあっても、それを超えて余りある人間の生のあり方を示すメッセージがあると思いました。疎外されるべき、存在しなくても良い人など一人もなく、
「あなたこそ私そのものなのだ!」
という神の「沈黙」を破る声が、私にも届いた瞬間でした。

