「日本人は13歳」 Douglas MacArthur (1880~1964)1945年日本にやってきたときマッカーサーは65歳であった計算になる。

わたし個人が「おまえこそ13歳だろ」と人から言われたら、自分は否定しない、恥ずかしいとも思わない。還暦も近い年齢に達したわたしだが、世の中は知らないことばかり、知らないことがほとんど。自分は無知だ。

なんで?どうしてそうなるんだ?つねに答えを探ろうとするのはまさに13歳にふさわしい自然な態度だと思う。

学校では「正しいと思うことはキチンと主張しなさい」家庭では「ウソをついてはいけません」と言われるのが、その年頃ではないだろうか。

「世のなかは理不尽にできてるもんだ。ウソとホントが判然としないところでウソをつける人間が世のなかをうまく渡ってゆけるんだよ、青いなぁキミは」などと、悟り顔でいう老人に自分がなるのは御免こうむる。

さて置いて、日本人は13歳、となると、個人に向けられたものとはまったく意味合いがちがってくる。

「皇国2600年の俺たちが、建国わずか200年のお前らからそんなこと言われて黙っていられるか!!マッカーサーよ、俺はお前のその偉そうな態度に腹立てる。しかし感謝もする。なぜって、もし俺みたいな青二才がおなじことを言ったところで誰も聞く耳を貸す者はないからだよ。あんたの口からでた言葉だからこそ、快・不快はあるにせよ、みんな耳を傾ける、そういう国民だ日本人は」

11月23日付の高知新聞に、13歳向けのわかりやすく書かれた記事が載っていた。砂川事件に関しての最高法廷がくだした現時点での憲法解釈についてのことである。

まず砂川事件とはどのようなものであったのか、ザッとおさらいしてみるとつぎのような次第。

米軍立川基地の拡張に反対する一部住民らが、柵を破壊して基地に侵入し、逮捕されたというもので、事件それ自体は平凡で些細なことなのだが、裁判が、駐留米軍は憲法9条に違反しているか否か、という論争に発展したことで、世間からにわかに注目を集めることとなった。

それでは下に新聞記事をそのまま書き写します。

最高裁大法廷は、砂川事件の伊達判決を破棄した1959年12月の判決で、憲法9条は戦争を放棄し、戦力保持を禁じているが、「主権国として持つ【自衛権】は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して【無防備、無抵抗】を定めたものではない」との解釈を示しました。

また9条2項の戦力不保持は、永久に放棄した【侵略戦争】を引き起こせないようにするためであり、保持が禁止された戦力とは、日本が【指揮権、管理権を行使できる戦力】と定義しました。

そうすると、日本に指揮権も管理権もない【駐留米軍は戦力に当たらない】として、戦力と認めて憲法違反とした伊達判決を退けました。

一方、伊達判決では、米国の戦略で駐留米軍が他国に出動し、日本が直接関係のない武力紛争に巻き込まれる危険があるなどとして、米軍駐留自体が憲法の平和主義に反すると判断されました。

これに対し最高裁は、米軍駐留の根拠となる日米安保条約には、日本の存立の基礎に重大な関係を持つ【高度の政治性】があり、一見して明らかに憲法違反で無効と認められない限りは裁判所による【司法審査権の範囲外】という考え方を明らかにしました。

こうした考え方は【統治行為論】と呼ばれます。

以上が記事からの抜粋でした。なかなかよく考えられた判決でした。

ところで、去年か一昨年のことだったか、アメリカ公文書図書館(機密扱いにされていた公文書を50年?だか経過したのち公開して、歴史検証できるシステム)が公表した資料から、まさに上で紹介された砂川事件の最高裁判決が下される直前に、日本の政府高官がホワイトハウス高官に、これから判決しようとされる判決内容を書面で知らせていたことが、判明したという報道があった。

つまり、日本の司法は「高度な政治性」の名のもとに、その独立性が歪められ、司法と政府が一体となって砂川事件に当たったのである。

どうして日本はそうまでして卑屈になれるんだろう?そうまでして献身的にアメリカの日本支配に協力的になれるんだろう?

一市民としてこのことをどうとらえるか、各自で考えてみることが大事ではないでしょうか。

もうひとつ不満があるのは、こういった事実を外国から知るという情け無いハナシだということです。

日本で起きたことなのに、日本人が日本国内で検証するすべもない体制と体質、政府にとって都合の悪い「真実」が国内から表面化しない国家というのは、国のあり方として大いに疑問が残る。

ところで、法律にたずさわる職業家、たとえば判事・検事・弁護士・法学者などは、あたりまえのことですが法律として書かれた文言から一歩も枠外へでることなく、その範囲内であれこれ解釈して生きている、ということを念頭におく必要がある。

たとえば、もしもわたしが一国の独裁的な王だとして、家来に命じて自分に都合よい法律を書かせたとする。

そうすると、どんなに頭の良い法律家であろうとも、独裁者たるわたしの自分勝手で都合のよい法律の文言のなかで、あれやこれやと解釈するしか手立てがないわけである。

日本国憲法一~九条はまさしく日本人(左右を問わず)をあやつり人形にするカラクリがあることを、これまでわたしはブログに書いてきた。

憲法一~八条によって、天皇ヒロヒト氏は生かされた。恩を施された日本人はアメリカに逆らえないことになった。

エノラゲイという爆撃機に搭載された原爆に書かれてあったメッセージはDear Hirohito。

ジョーク混じりに原爆を投下する無神経なアメリカにへつらう日本人の心理に、おなじ日本人として理解できない。

かの国は、ヒロヒト氏および日本人全員を嫌悪していた、しかし65歳の老獪なマッカーサはヒロヒト氏を生かした、それだけで日本人はおとなしく従順になった。

ヒロヒト氏の戦争責任はこの点にあることも書いた。

敗軍の将を、わたしは戦争責任の理由とはしない、「生かされた」ことを戦争責任と考えるのである。

ヒロヒト氏は御前会議において、宣戦布告を裁可した時点で、もし日本が敗戦した場合のことを考えてみたことはいっさい無かったのだろうか?

実質的には東条英機が影の最高実力者であったとしても、ヒロヒト氏は天皇という名義をブランドを看板を東条に貸し与えたのである。

一兵卒からすれば、天皇ヒロヒトという名義は、志気が高揚し、誇らしげに戦える正義心を鼓舞する絶大な効果があった。この方の為なら自分は死ねる、とまで考えることができた。

天皇陛下バンザイと叫んで死んで逝った兵士たちは、自分はいま死んで行くけれど、天皇陛下どうぞ後のことを大日本帝国のことを宜しくおねがいします、と死んで逝ったのではなかったのか。

命を賭してまでの戦争ではなかった、とヒロヒト氏が考えていたのだとさいしょっからわかっていたなら、兵士たちはそんな戦争の為に自分が死ぬなんてバカバカしい、と思ったにちがいない。

わたしが彼らの身になれば そう考える。

自分らは命を捧げて戦っているのに、最高の位にあるお方に本気度がなかったならば、死ぬ覚悟も決めてない天皇と知っていたなら、自分の死は「犬死にだ」とだれもが考える、生きて虜囚の辱め、なぞウソっぱち、と悟ったことだろう。

ヒロヒト氏と東条英機のふたりは国民の目に一連托生と映ったのだ。

それなのに、マッカーサーらの計画どおり狙いどおり、独裁者の汚名と責任を東条英機らにおっかぶせ転嫁して、あなたは生かされた。

もともとヒロヒト氏は戦争を止めたかった、する気がなかった、というのであるなら、軍部に対する拒否として何らかの行動はとれたはずである、なんなら御前会議の場で退位してもよかったのだ。

わたしはこの人物を考えるとき、煮え切らないこの人にやりきれなさを覚える。ミカドというものはこういう種類にできているのか?

煮え切らない性格が災いして、ほんらい助かったかもしれない敵・味方に関係なく数百万数千万人の尊い命が失われたことを思うと、まったくやりきれない。

そもそもどこの国でも、王様の基礎を築いた者の始まりというものは、残酷冷酷な人物の極みであった。

親子・兄弟・親戚どおしが血で血を洗う凄惨なことを平気でやってのけたような一族だった。

源氏と平家の争いも、天皇家を軸とした遠い親戚どおしだった。

つい先日も、自分の一家六人を殺害したのち本人は橋の上から飛び降り自殺したというニュースが報道されたけれど、想像してみればいい、そういう種類の人物が血縁の人を斬り殺す光景を、目撃した近所の農民に返り血を浴びた壮絶な顔でふりむいた目に、古代の農民が震えおののく光景を想像すればいい。

どこの国の王も、そういう種類の人間のまさしく子孫である。サダムフセインをキムジョンウンを見るがいい。彼らはまさに黎明期の王たちだ。

時代がくだって、当時の生々しい記憶が薄れ、体制ができあがり、神話がつくられ、庶民から自動的に尊敬されるようなものが確立されると、わが手で鋤・鍬・織り機を持たなくとも、しもじもが米や衣服を上納してくれる頃には、歌舞音曲に親しんゆで優雅に暮らせるのだ。

人間はたしかに社会的な生き物である。

わたしに物心がついた頃、この国にエンペラーが存在することを見聞で知った、しかしそれは社会が決めたことであり、わたし個人がそのお方をエンペラーと決めたわけではない。イラクや北朝鮮に生まれた若い人たちにしても、すでにサダムフセインやキムジョンウンが王として決まっていたのとおなじである。

ノーベル賞をもらった人を「すごい人だ」と褒めても、その息子まで褒めることはない。

腫物にでも触れるようなデリケートな目でエンペラーを見ることなどわたしにはない。空を飛ぶような人間としてではなく、ふつうの人間として彼らを見る。

世間から批判されようが、わたしが天皇に対する考え方は、こういうことだ。

ついついわき道にそれ、熱くなったけれどハナシを憲法にもどし、…「生かされた」ことが戦争責任の理由とするのである。

いまとなっては仕方ないことだ、ヒロヒト氏は亡くなった、すべては終わったが、米軍基地はいまも居座っている。

そして第九条、これがまた曲者だ。

新聞に書かれてあるように、憲法九条は、日本はみずから「指揮権、管理権」を行使できない。

米軍は日本の管理下にない、日本の治外法権だ、だから米軍駐留に違法性も問題もない、という方程式になっている。

「くそったれのマッカーサー、日本人は13歳というあんたの言葉は、あんたにしちゃよくできた名言だ!!」

コップのなかの嵐のように、戦後の70年間、日本は右だの左だのが子供のケンカのように互いが罵り合い、どつきあってきた、そして自分の軸足をどちらか一方に置くようなすり込みをされて、そうするような対立の構図で物事を考えさせられてきた。

その間、アメリカは、痛くも痒くもなく、涼しげな顔で着々と支配を不動のもの、確固たるものとした。

かつての日本は満州経営をしていたけれど、いまの日本人は満州人とおなじ目に遭っている、いや彼らより愚かかもしれない。

わたしが「米軍を追っ払え」と、突き動かすものは、心底不快だから。

その不快感は正直に言ってわたしのなかのナショナリズムがそうさせるのだと思う。

ナショナリズムがまったくない人は、外国軍の駐留を何とも思わないだろう。

タレントに所ジョージという人がいるけれど、ああいうアメリカ好きな人間は、無条件で基地を歓迎するタイプの人たちだ。

日本人一般はナショナリズムを危険視する傾向があるけれど、よく考えてみて、米軍はアメリカナショナリズムの代名詞ではないのか?

つまり、日本人は日本のナショナリズムを否定して、アメリカナショナリズムを肯定している矛盾に気づかないだろうか。間接的にアメリカナショナリズムをプッシュしていることに。

わたしのナショナリズムを説明することは自分でも難しいのですが、文章全体から感じてもらえたら、と思う。

ふつう一般に、ナショナリズムというと、大衆向けに、視覚的に認識しやすい記号として、日ノ丸・天皇・靖国をイメージする、これらは群衆心理を束ねるための、また国民の目をそらす為の装置として用意されたものです。

アメリカは日本の右と左に限らず、こういったポピュリズムに染まりやすく、深く考えることのない国民、思惑どおりに自由に操れる国民を歓迎し、利用してきた、日本政府も積極的に協力したのである。

新聞記事がまさしくそれを証明している。

ルソーの言葉を借りることになるが、「投票権を持つということは、その人は政治研究の義務を充分に課せられるのである」

「義務を充分に課せられる」重い言葉ではないか。

容易なことではないのですが、国民ひとりひとりが、常にこの意識を持って、はじめて真の民主主義が成り立つのではないだろうか。

いま世間でおこなわれているのは民主主義の理念からほど遠いポピュリズム政治であって、ただ数の収奪戦にすぎない。

みなさんがご立腹するのを承知で言わせてもらうと、いまの時代というものはヒツジの群れ、名づけて羊群主義の時代である。

えーぃくそ!!マッカーサーよ、日本人全員がお前らに服従しようとも、俺だけは服従しないからな。


via 大本柏分苑
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