八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参《ちょうさん》をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたい...こと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。

ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。

八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。

孝明天皇の准后夙子《じゅごうあさこ》(幼名基君《のりぎみ》、諡《おくりな》・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。

弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后《きさき》を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。

翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内《じゅだい》する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣《ひとえ》を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。

この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。

いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。

翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。

和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰《さた》になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。

八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭

二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走《ほんそう》の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか。


■皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、孝明天皇と岩倉具視 『霊界物語』四一巻の謎を解く(一)

●四十一巻は、東西両洋における古典や神話に漏れたる、幕末維新の真実を暗示した!

冒頭に『霊界物語』四一巻の序文を引用します。

序文 そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉(図一)の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴《つづ》り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞《きんげんぎょくじ》もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。

「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。

世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』

豊葦原瑞穂国中津《とよあしはらみずほのくになかつ》国は、「ス」神の国

「ノアとナオとの方舟図」です。この方舟には、五大州が割り振られていることから、豊葦原瑞穂の国が全世界という定義でいえば、まさに「豊葦原瑞穂の国」を示しています。ここが肝要ですが、その中心にあるのは、中津国、日本を示すはずです。すなわち、「ス」の本《もと》の国、「ス」とは「主《す》」であり、「日」ですから、「ス」神の中心におわす日の本の国、日本を示します。そして、日本は「霊《ひ》」の本の国であり、霊主体従の身魂を霊《ひ》の本の身魂と言います。主の大神とは、「神素盞嗚大神《かむすさのをのおおかみ》」を示します。その根拠については、別の号で示します。なお、全体を空間として天火結水地を縦にみれば、地球、あるいは宇宙空間を示しています。

なお、一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』

…『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』

全世界が日本であった…ということを思わせる主旨の聖師の記述は、私たちの常識を超えます。太古に日本という国名はなく、使用されたのは大化の改新より後であると考えられる…。しかし日本「日《ひ》」の「本《もと》」の国が「霊《ひ》」の「本」、「ス」の「本」、「皇《す》」の「本《もと》」であるという聖師の見解からみると、豊葦原瑞穂国、全世界が主神、神素盞嗚大神の「本」にあるわけだから「主」「ス」「日」「皇」「霊」の「本」の国で矛盾はないわけです。そして、方舟図の「ス」の位置が豊葦原瑞穂国、中津国の日本となります。メソポタミア地方も同様に豊葦原瑞穂国中津国といいますが、それは、「メソ」=「水」、「ポ」=「穂」、「タミ」=「民」、ア=「国を表す接尾語」合わせて「瑞穂民国」というわけです。

九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。

●神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る

序 この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》せる八岐大蛇《やまたのおろち》を寸断し、ついに叢雲宝剣《むらくものほうけん》をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否《いな》み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑《なおざり》に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。

読者諸子のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時

於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌

「大正十年十月廿日 午後一時」というのは、本宮山神殿破壊のまさにその日時です。大正時代の大本機関誌「神霊界」に聖師が執筆された「掃き寄せ集」(大正十年一月一日号所載)の中で、切紙神示が「切紙宣伝」として紹介されています。「さてこの二大勢力が衝突するのは何時かとみると明らかに大正十年九月二十日午後一時と出る」とあるのです。

「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。

その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。

●「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」

『霊界物語』は、東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補う。隠された秘密を明かす純粋の現界の史実、しかも似た文字があったとして速解してはいけない…

『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。

たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。

それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。


via 大本柏分苑
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