出口王仁三郎著 霊界物語 第47巻 第13章 下層天国より

大正12年1月9日 口述筆記

(大本信者に人気のある天国巡覧編です。原文は18世紀の神学者スウェ-デンボルグを翻訳した鈴木大拙の天国と地獄を引用してますが、治国別と竜公との掛け合いによる聖師の絶妙な脚色で、親しみやすい内容となり、天国が身近な存在になった傑作といえます。)

高天原の天国の      東と西との団体に     住む天人は親愛の

その善徳に居るものぞ   東はいとも分明に     愛の善徳感得し

西には少しおぼろげに   感ずるもののみ住めるなり 南と北との団体は

愛信の徳より出で来る   智慧証覚に居れるもの  いや永久に住居せり

中にも南に住むものは   証覚光明明白に     北は証覚おぼろげに

光れるもののみ住めるなり。高天原の霊国に      ある天人と天国に

ある天人は皆共に     右の順序を守れども    少し相違の要点は

一つは愛の善徳に     従いて進み又一つは   善の徳より出で来る

信の光に従うて      いや永久に住めるなり  この天国にある愛は

神に対する愛にして    之より来る真光は     全く智慧と証覚ぞ

又霊国にある愛は     隣人に対する愛にして  之を称して仁と云ふ

この仁愛より出で来る   真の光は智慧なるぞ   或いは之を信と云ふ

久方の高天原の神国には  時間空間春夏秋冬の区別なし 只天人各自が

情態の変化あるのみ    現し世に於けるが如く   天界の 

万事に継続あり進行もあり されど天人は       時間と空間との

概念なし         久方の高天原には     年もなく

月日もあらず時もなし   只情態の変移あるのみ   情態の変移の

ありし所には       只情態ばかりあるなり   現界の凡ての人は

時間てふ         その概念を離るる能はず  天人はその情態の

上より之を思惟すれば   人の想念の中に於て  時間より来れるものは

天人の間に入りては  皆茲く情態の想念となるものぞ  春と朝は

第一情態に於ける    天人が居る所の 愛の善及び証覚の境涯に対する

想念となるものぞ     夏と午時は      第二情態にある天人が

居る所の愛善及び     証覚の境涯に対する    想念となるものぞ

秋と夕べとは       第三情態に於ける  天人が居る所の愛善及び

証覚の境涯に対する    想念となるものぞ     冬と夜とは

地獄におちし精霊が    之等の境涯に対する    想念となるものぞ

言依別命は治国別に向って尚も天国団体の説明を続けて居る。

治国『実に天国と云ふ所は、吾々の想像意外に秩序のたった立派な国土ですな。到底吾々如き罪悪に充ちた人間は将来この国土に上る見込はない様ですな』

『決して決して左様な道理はありませぬ、御安心なさいませ。此処は最下の天国で、まだこの上に中間天国もあり、最高天国もあるのです。猶其外に霊国と云ふのがあって、それ相応の天人が生活を続けて居ます』

『その最高天国へ上り得る天人は、非常な善徳を積み、智慧証覚の勝れたものでなければ参る事は出来ますまいな』

『厳の御霊の聖言にもある通り、生れ赤子の純粋無垢の心に帰りさへすれば、直ちに第一天国と相応し、神格の内流によって案外容易に上り得るものです』

『成程、然し吾々は如何しても赤子の心にはなれないので困ります。然し天国にも矢張り自然界の如き太陽がおでましになるのでせうな』

『アレ、あの通り東の天に輝いて居られます。貴方には拝めませぬかな』

『ハイ、遺憾乍ら未だ高天原の太陽を拝する丈けの視力が備はって居ないと見えます』

『さうでせう。貴方には未だ現実界に対するお役目が残って居ますから、現界から見る太陽の様に拝む事は出来ますまい。天国の太陽とは厳の御霊の御神格が顕現して、茲に太陽と現はれ給ふのです。故に現界の太陽とは非常に趣きが違って居ります。霊国にては瑞の御霊の大神月と現れ給ひ、天国にては又太陽と現はれ給ふのであります。さうして霊国の月は現界から見る太陽の光の如く輝き給ひ、又天国の太陽は現界で見る太陽の光に七倍した位な輝き方であります。さうして日は真愛を現はし月は真信を現はし、星は善と真との知識を現はし給ふのであります。故に瑞の御霊の聖言には、

一.月の光は日の光の如く日の光は七倍を加へて七つの日の光の如くならむ一.我汝を亡ぼす時は空を覆ひその星を暗くし雲を以て日を蔽はむ。月はその光を放たざるべし。

一.我、空の照る光明を汝等の上に暗くし汝の地を暗となすべし。

一.我は日の出づる時之を暗くすべし。又月はその光を輝かさざるべし。

一.日は毛布の如く暗くなり、月は地の如くなり、天の星は地に落ちむ。

一.之等の艱難の後、直ちに日は暗く月は光を失ひ、星は空より落つべし。

とありませう。この聖言は愛と信との全く滅亡したる有様を、お示しになったのでせう。今日の現界は自然界の太陽や月は天空に輝き渡って居りますが、太陽に比すべき愛と、月に比すべき信と星に比すべき善と真との知識を亡ぼして居ますから、天国の移写たる現実界も今日の如く乱れ果てたのです。かかる事を称して聖言は・・・之等の諸徳、亡ぶる時、之等の諸天体暗くなりその光を失ひて空より落つ・・・と云はれてあるのです。大神の親愛の如何に大なるか又如何なるものかは現界に輝く太陽との比較によって推知する事が出来るでせう。即ち神の愛なるものは頗る熱烈なる事が窺はれませう。人間にして実に之を信ずる事を得るならば、神様の愛は現実界の太陽の熱烈なるに比較して一層強いと云ふ事が分りませう。大神様は又現実界の太陽の如く直接に高天原の中空に輝き給はず、その親愛はおひおひ下降するに従って熱烈の度は和らぎ行くものです。この和らぎの度合は一種の帯をなして天界太陽の辺を輝き亘り、諸々の天人は又この太陽の内流によって自らの身を障害せざらむが為め、適宜に薄い雲の霊衣を以てその身を覆うて居るのです。故に高天原に於ける諸々の天国の位置は其処に住める天人が神の愛を摂受する度合の如何によって大神の御前を去る事或は遠くなったり、或は近くなったりするものです。又高天原の高処即ち最高天国に居る天人は愛の徳に住するが故に、太陽と現はれたる大神の御側近く居るものです。されど最下の天国団体にあるものは信の徳に住するものなるが故に、太陽と現はれ給うた大神を去る事最も遠きものであります。ここは即ちその高天原の最下層第三天国の中でも最も低い処ですから、太陽を現はれました大神の御光を拝する事が余程遠くて現界の太陽を拝する如く明瞭に分らないのです。さうして最も不善なるもの、例へば暗黒界の地獄に居るものの如きは、大神様の目の前を去る事極めて遠く且つ太陽の光に背いて居るものである。さうしてその暗黒界に於ける神と隔離の度合は善の道に背く度合に比するものである。故に極悪の者は到底少しの光も見る事が出来ず無明暗黒の最低地獄におつるものであります』

『やア有難う厶いました。吾々まだ善と真よりする智慧証覚が足りませぬから、大神の御姿を仰ぐ事が出来ないのでせう』

『第三天国の天人等の前に神其儘太陽となって現れ給ふ時は、各眼眩み頭痛を感じ苦みに堪えませぬ。それ故大神様は一個の天人となって、善相応、真相応、智慧証覚相応の団体へお下り遊ばし、親しく教を垂れさせ給ふのであります』

『いや大いに諒解致しました。私も之から現界へ帰りますれば、その心得を以て善の為め真の為めに活動をさして頂きませう。あゝ惟神霊幸倍座世』

『サァ之から天人の団体へ御案内致しませう』

治国別、竜公は、『ハイ、有難う』と感謝しながら言依別の後に従ひ欣々として進み行く。

(下層天国、後半もあります。 続きの原文は愛善世界社刊 注釈付き文庫判をお読み下さい、アマゾン、ジュンク堂書店などで取り扱っております。)


via 大本柏分苑
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