(大正9年9月 みろく殿 王仁三郎講話より 著作集第一巻)

お筆先にミロクの世が出て来ると云う事が載って居ります。仏教の法滅尽経にも出て居ります。阿弥陀浄土の教が亡ぶる時に、弥勒菩薩が現れて来ると云う事が出て居ります。基督教でも、天国が来ると云う事が聖書に出て居ります。神道では、松の世、即ち神の世が出て来る。ところが弥勒の世は何時出て来るかと尋ねて来る人があります。それで御筆先の上から弥勒の世が何時から始って居るか御話したいと思います。

弥勒という中には、法身、応身、報身と三つに分れて現れて居る。明治25年正月元旦に、国常立尊(くにとこたちのみこと)が愈々ミロクの世が来ると云う事を御知らせになった。教祖は神様の御道の中に御這入りになって、愈々、法身弥勒の御働を遊ばしたのが、明治30年からの事で至善、至美一筋の遣り方をなされる所の神様であります。弥勒の出現と云う事は、霊体を以て現われられたのを、時節到来して、茲に或る形体を持って、此の世に現われたのでありますから、明治30年から弥勒の世になって居るのであります。それから又30年で世の立替えをすると云う事は御筆先が出ましてから30年後と云う事になる。此の御筆先はどちらにもとれる。丁度古事記を講釈致しますと、其の時代に応じて活生命を具備せる予言が書いてあります。大正の世には、大正の世の様になって活て居り、明治初年には、初年の如くに活きた教訓であり、徳川時代にはその時代の活きたる解釈が出来る様になって居ります。是が古事記の名文たる所以であります。御筆先もそうであります。其人の身魂相応にとれる。時代によって、活きた解釈が出来る。実に伸縮自在な教である。此の法身弥勒の御代身たる教祖様が本当の法身になられたのである。

善人と云う事は善なる人、誠の人と云う事であります。人を殺せば、国法によって自分も殺されなければならぬ。宣戦の詔勅が下り、出征をした時に、敵を斃して多数の人を殺す。其時は殊勲者として罪になるどころか勲章を戴くのである。時と場合とに依って、悪い事ともなり良い事ともなる。善人と云う事は法身弥勒の事である。世の中を善一筋に治めて善の鑑をなされた、教主様や是に類した善行を励まれた人の事であります。

盗人に向って頭から叱っても中々直らぬ。自分も盗人の群に這入って、一遍位は自分も盗人をやって見る。此の行はいかぬと言って、本当に改心させる。之に応じて改心をさせる、是が応身と云う事であります。法身の弥勒即ち善人から見ますと、応身の弥勒は非常な悪にも見える事がある。正邪善悪を超越して、社会の毀誉褒貶抔は眼中に置かないで、天下国家の為に一身を捧げる。是が応身弥勒である。唯天下国家の為、飽く迄も自分の力のあらん限り、霊力の続かん限り、天下万民の為に一身を犠牲にする所の働であります。お筆先に大本は悪く云われて良くなる仕組であるぞよと仕組まれて居る。真直な人、天下国家を思って、大本と一緒になって尽くしたい人を誤らせる事がある。斯う云う工合に悪く云われるからには、大本には何か必ずあるに違いないとやって来る。是は先ず上等な人である。此処へ来て見たならば、新聞や雑誌に書いてある事が嘘である事は一遍で分るけれども、世の人は総て迷信して誤解して居る。

ミロクの世と謂えば、天下泰平、至美至美なる世、安心なる世、鼓腹撃壌の世の中のように思って居る人が多いが、併し是が報身のミロクの世の中とならなければいかぬ。それ迄はミロク様は応身となって現われ、総ての世の悪魔と戦わなければならぬ。ミロクには大自在天と云う敵がある。ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。若し百の力が一つ欠けたならば、大自在天は勝つのであって、是では、どうしてもミロクの世になることは出来ぬのである。大自在天には財力がある。今日は、筆の力、口の力で攻めて来る。或は法律権力で攻めて来る、或は軍隊の力を以て攻めて来ると云うように、どんな権力でも持って居る。即ち九十九の力を持って居るのであるが、ミロクの方はそう云うものは何も持って居らぬ。唯<誠>と云う一つの玉を持って居るのみである。剣とか、弓とか、そういう圧迫するものはなくて、唯<誠>一つで、それにぶつかって行くのであります。そうして応身の働をせねばならず、ミロクの立場と云うものは、実に苦しいのであります。

何時ミロクの世が来るか、何時立替えがあるのかと、それ斗りを待って居る人があります。

既に明治30年と云う時期が来て了って居るのであるから、何時何ん時でも立替は出来るのである。今でも出来るのである。此処まで開けた此世の中であるから、一人でも助けたい、餓鬼虫族までも助けたいのが神様の大御心でありますから、之を助けなければ申訳がない。天地の神様にお詫をして、延ばして頂いて居るのであります。全く神の心と人民の心とは反対であります。

人民は早う立替が来たらよいと待ちつつあるが、若し今日突然立替が来て、所謂大三災が来るとしたならば、大本に於ても、十人と助かる者はないもののように思います。皆考えが違って居る、本当の神心になって居らぬ。神様の御心になって居らぬ。神様の御心に叶う心、即ち誠の心に、善人になって居らぬ。そうして一方には物質文明が益々発達して、汽車、汽船は頻々として往来し、空中には飛行機が飛んで居る。電信、電話も整備して、天地間と云うものは非常に縮小して居ります。統一と云う事は、例えば電信、電話が何処へでも通ずる、汽車ならば何処へでも行ける、是が電信、電話、汽車の統一である。即ち交通の統一である。唯精神界の統一が残って居る丈けである。我々の魂は非常に曇って居る。曇に曇って悪い血が流れて居る。併し目を以て無限大の宇宙を見ると、一遍で広い空界の現象が映って来る。斯う云う様な結構な目を持って居る。併し神様は、魂とか言霊と云う力を吾人に与えて居る。我々は目を以て無限大の蒼空が見えるように、耳も、鼻も、口も一身上の統一が出来なければならぬ。併し肉眼を以て、形体丈は見えるが、細かい所は見えない。日月星辰の輝いて居る事は分るが、未だ言霊(ことたま)を以て目を働かすと同じく、風雨雷霆を𠮟咤する言霊の妙用を発揮する人は、未だ出来て居らぬ。

斯くの如く、地球上の事一切は皆片輪になって居る。一方が進めば一方は退いて居るのである。日本の今日の国情を考えて見ると、愚図々々して居る時ではない。夜も日も眠れぬ位に不安な状態になって居ります。世界の思想界は混乱の極に達し、資本家と労働者との軋轢、是も至る所に起って居るのである。国交上の問題等で、何うしても或る国と戦わずに居られないと云う有様です。某国は既に着々として軍備を整えて居る。若し今直ちに戦争をしたならば、滅茶々々にされて了う事は分り切って居る。二、三年先になったならば、到底勝つ事は望めない。物資的に勝つと云う事は出来ない。今の中ならば何とかなるだろうと云っても、無謀な軍は出来ませぬ。若し独逸のように敗けたならば、再び起つ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。是は何うしても、大難を小難にまつり代えて貰うと云う事を考えなければならぬ。手を尽くしていかない時には、所謂言向和わす(ことむけやわす)と云う神勅に依って、言霊の妙法を発揮するより外はありませぬ。武士の言葉に二言なしという如く、若し言霊を一遍使ったならば、二度とは使えない。無茶苦茶な事は出来ない。鶴の一声とか神の御道に、二言のあるべき筈がない。唯一回である。それであるから非常に難しい。大なる修養を要するのであります。鼬(いたち)が最後屁をしたようなものである。屁を放った鼬はもはや生命はなくなる。蜂が人を刺す。一遍刺したならば、其蜂は命が無くなる。言霊というものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて、愈々という時に使う。

国家の危急存亡の場合、背に腹は代えられんという時に使うのであります。亀山上皇が元寇来襲の時に、身を以て国難を救おうと神祇に誓われた.是も上皇の言霊の力であります。斯の如く大なる力を以て居るのが言霊である。その代り之を屡々運用する事は出来ぬのである。更に詳しく応身の弥勒に就いて御話し申し上げたい。

これは物に触れ事に接して、千変万化の働をする。この世の中を安けく平らけく治まるようにする。応身弥勒は米の種のようなもの、此籾を苗代に蒔いて、草を取り、田に植えつけて草を取り、水を注ぎ、稔った稲を刈り稲木にかけ、臼で引く、俵に詰める。此処迄にするのが応身の働であります。

次に報身の弥勒の世になれば皆喜ぶ世になる。之を天国とも謂える、或は極楽の世とも謂える。じつに鼓腹撃壌の世の中となって来るでしょうが、それまでになるには一つの大峠があります。大峠を越さなければならない。御筆先に大難を少難にまつり代えてやると出て居ります。この大難と云うことには、三つの大なる災いがあります。風、水、火であり、少難は饑、病、戦ということである。不作が続いて饑饉になる、或はコレラ、ペスト、流行性感冒などが起こって来る。之が少難である。戦争も人事を尽したならば免れる事が出来るのである。総べて人間の力に依って幾分でも防ぎ得ることが出来る。けれども風、水、火は人力の奈何ともする事が出来ませぬ。少区域の風害、大洪水なぞは奈何とも為がたい。火山が爆発する、大地震が起る。桜島の噴火というような事でも、どれ程偉い地震学者が出ても、唯破裂の兆候があると言って知らせる丈であって、防止する事は出来ない。破裂した跡を研究する位な事しか出来ませぬ。

若し風水火が起ったならば、ノアの洪水以上のものになる。ノアの時は只洪水だけであるが、風水火が働いたならば、風攻め、水攻め、火攻めと云う事になって、到底人力では如何ともすることが出来ない。今日饑饉の兆候はないけれ共、米が高くなったならば段々出て来る。病気なぞも頻発して居るけれども、是は未だ防げるのであります。若し大難が起ったならば、世界は全滅するより外に仕様はない。大本では大難を少難にまつり代えて下さいとお願いするのであります。今の中は、神さまが天地を支えて居られるのである。世の終りが近づいたという事は、基督教でも、仏教でも唱えて居ります。神さまが金剛力で支えて居って、其の間に改心させて、一人でも余計に助けたい御骨折りになって居ります。それを知らずに大正10年頃だとか、噓だとか言って騒ぎ廻って来なかったならば、大本を叩き潰して了うという人達が在るという。是は全く悪魔に魅せられて、神さまの事が分るどころか、利己主義(われよし)の骨頂であります。何して弥勒の世が実現しましょうか。誠があったならば、そういう事の無いように、世の中を平けく安けく治まるように、祈って居らなければならない筈である。大混乱大騒動を待つ悪魔の精神である。祝詞(のりと)には大騒動が起るようにとは書いてない。天下泰平を日々奏上して平けく安けくと祈りながら、全く反対になって居る。立替が来たならば自分は助かる、大本を讒謗罵詈した者は皆滅されて了うという不心得者も無いではない。そういう人間が真先に滅されて了うのであります。

大本に来ないでも、本当の誠の人ならば馬鹿な事は思わない。大難も少難も無いように、大難を少難にする様に御祈りするのである。今度の二度目の天之岩戸を開いて、立派なミロクの世として、神人与に楽しむと云う事が御筆先にあります。どうしても改心が出来なければ、折角お引受になって誠に申訳ないけれども、已むを得ずのことがある。決して神や出口を恨めて下さるなとまで仰せられて居る。全世界を自由にすると云う偉大な神様が

已むを得ずと仰せられると云う事は、余程現代の人間には愛想を尽されてのことであります。人心が腐敗して、今日の社会はその極に達し、畜生同然に成って居ります。平田篤胤翁が

これはしも人にやあるとよく見れば あらぬ獣が人の皮着る

と詠って居ります。是こそほんとうの人間かと思ってよく調べて見ると、豈計らんや、人間に非ずして、獣である。獣が化けて人の皮を着て居るのだと嘆かれた。その当時でも斯くの如き有様であるから、まして数十年も経った今日では、推して知ることが出来るのであります。弥勒の世に住む人は、総て報身の働きをしなければならぬ。報身の働きとなって、国家天下の為に尽す。そうせぬことには報身の世は現れて来ない。報身の世になると、すべての人は聖人君子計りになる。此世を指して神世と謂い、弥勒の世と謂い、或は天国浄土と謂うのであります。(大正9年 弥勒の世に就いて 了)


via 大本柏分苑
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