深山の草

出口和明『大地の母』第一巻一章

深山の草 日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳《かげ》った瞳《ひとみ》が時おり怯《おび》えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍《い》てつく欄干の上をなでる。国訛《くになまり》の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。

誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。

叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに……それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖《あや》しい夢のようで、現実とは思えなかった。幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋《がいせん》の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。

明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」

あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄《にえ》となられて関東に御降嫁。

しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し、改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮《えいりょ》され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫〈徳川貞子〉の御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。

東京奠都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。ただそれだけで、うちは幸せなんや。供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼《まぶた》に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝《《みかど》のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。

ある日、事情に気付いた船宿の朋輩《ほうばい》の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫《さら》われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」「ちがう。うち、身ごもってまへん」世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪《あ》せた。故郷が狼狽《ろうばい》する世祢を招いた。養女に望んでいた。

けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土《うぶすな》さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った。

なお、誤解されがちですが、「深山の草」とは、上田世祢のことではありません。有栖川宮熾仁親王の、世祢に対する恋心がつのる様子を、深山《みやま》の草の誰もしらないが茂る様子に例えたものです。

●和宮はなぜ暗殺されたか

ある人は、新政府が和宮を暗殺するには、根拠が薄弱ではないか、和宮を暗殺しなくとも、他の宮家や貴族にしたように口封事さえできればよかったと。そのことを考えてみました。

この文中に出てくる「繁姫《しげひめ》」とは、徳川貞子(図八)(嘉永三年(一八五〇)旧十月二七日~明治五年(一八七二)旧一月九日)のこと。徳川斉昭《なりあき》の十一女として駒込の水戸藩下屋敷に誕生し、書は有栖川宮幟仁親王から学んでいる。慶応三年(一八六七年)に兄徳川慶喜の養女として、皇女和宮との婚約破談後の有栖川宮熾仁親王と婚約する。嫡母《ちゃくぼ》吉子《よしこ》女王及び長兄慶篤の正室幟子女王も有栖川宮出身であり、水戸徳川家と有栖川宮は縁戚関係にありました。しかしその後、徳川慶喜の大政奉還により婚姻が延期され、そして翌明治二年(一八六九)、九月十九日、徳川斉昭娘貞子と再度婚約しました。十一月七日、婚約勅許。明治三年一月十六日、徳川貞子と結婚、四月三日、熾仁親王は維新政府の兵部卿に就任しました。

有栖川宮家は、皇族の代表であり、和宮に代わり有栖川宮が徳川家との姻戚関係を続けることで、武家に口封じをし、かつ日本統一の礎にしようとしました。もし徳川家に嫁入った和宮が有栖川宮と再婚するならば、公武合体の意味は水泡に帰しかねないし、また徳川貞子は最後の将軍、徳川慶喜の養女であり、異母妹です。熾仁親王の許嫁、皇女和宮の夫である徳川家茂を殺したのが、徳川慶喜と信じられており、その慶喜の養女、すなわち娘と結婚することは、仇《かたき》の娘と結婚するようなもの、熾仁親王として納得できるものではありません。また、大室寅之祐明治天皇からすれば、家茂暗殺の口封じのためには、熾仁親王と貞子妃の結婚が望ましい。

貞子妃は結婚の二年後、熾仁親王が藩知事として福岡に赴任中に丹毒を病み、東京の有栖川宮邸にて死去。東海寺に葬られました。

●江戸城大奥最後の日

私は和宮と有栖川宮の関係を明かにするため、熾仁親王の江戸城入城の記録が欲しいと思いました。大奥は熾仁親王が率《ひき》いる官軍に明け渡しが決まっていたのですが、そのような中、「江戸城大奥最後の日」というテーマで次の文章が、

十二代将軍家慶《いえよし》の時分、大奥の年間経費は二十万両といわれた。四十万石大名の一年間の収入に近い金額である。それが和宮の降嫁があった文久元年(一八六一)の末以降、毎年四、五万両ほど超過して、そうでなくてさえ苦しい幕府の財政を圧迫した。一橋慶喜は将軍となるや、大奥御年寄りの反対を押し切って、ただちにハーレムの経費節減を勘定方と御広敷御用人(大奥の用を総括する役儀)に命じた。御台《みだい》を江戸城大奥に入れていない彼にとって、時局をわきまえない女どもの蕩尽《とうじん》ぶりは、耳にするさえ苦々しきかぎりであったし、もはやその存在意義さえなくなった大奥は、単に無用の長物でしかない。ために、その節減策は徹底をきわめた。「衣服は、できるだけ洗い張りをして着用させよ」「年二回の畳替えも今後は一回、場所によっては裏返しですますこと」

「時節柄、外出や物見遊山《ものみうさん》、贈答などを自粛《じしゅく》せよ」

このほかにも、もろもろの節減項目が勘定方より御広敷御用人に指示された……

●和宮と天璋院の不和

皇女和宮(後の静寛院宮)が将軍家に降嫁して江戸城に入《はい》られた頃、大奥には先代家定《いえさだ》の未亡人天璋《てんしょう》院篤姫《あつひめ》をはじめ、家定の生母にあたる本寿《ほんじゅ》院、将軍家茂の生母である実成《じつじょう》院が、別殿で多数の侍女たちにかしずかれて起居していた。勝海舟の遺談によると、天璋院付きの女中は二百六十人、和宮付きは二百八十人いたという。これら多くの女性を中心に形成された大容止《ようし》〈立居振舞〉から諸行事の執りおこない方、交際、衣装等にいたるまで都振《みやこぶり》、奥の生活は、きわめて複雑かつ煩瑣《はんさ》に堪えないものがあり、日常の御所風と江戸風のちがいがあって、京都育ちの女官たちは、何かといえば江戸の生活慣習をさげすむところがあり、何かにつけてこれがいざこざのもとになった……

和宮の一行をむかえる幕府の態度は、おしなべて不誠実で、これが宮に供奉《ぐぶ》してきた朝臣《あそん》や侍女たちを憤慨《ふんがい》させた。女官たちの諍《いさか》いに困惑した岩倉具視は、江戸から京の正親《おうぎ》町三条実愛《さねなる》(議奏)に書を送り「(宮付きの女官たちの)居所、食物類何れも厳敷(きびしく)、由、針妙(裁縫《さいほう》にたずさわる下級の召使い)向きは泣き暮し候。一口にだまされたと申しおり候由にて、これは昨日、中卿より噂にて三浦へ段々申し聞け候所、大仰天にて早速取調に掛り候由に候。何かごてごて行違《ゆきちが》いばかりにて……」と報じている。

こうした諍《いさか》いはその後も尾を引くが、文久三年九月、朝廷内儀の大典侍《おすけ》(女官長)中山績《いさ》子から庭田典侍あてに、「嫁した以上は徳川家の風儀にしたがい、諸事和するように」との、きつい達示がとどいた。後宮(御所)と大奥(江戸城)の葛藤《かっとう》といっても、具体的には姑《しゅうとめ》にあたる天璋院と和官の感情のもつれで、両者を取り巻く女官たちの角突き合いが、この諍いをいよいよ過熱させた。

和宮の側では、あくまで皇女たる立場を堅持しようとし、天璋院のほうでは姑としての立場を明示しようとする。姑といっても和宮よりわずか十歳の年長で、宮の入輿当時はまだ二十六歳にすぎない。現代感覚からいえば未婚の女《むすめ》を連想するが、十四、五歳で結婚した当時においては、すでに肉置《ししおき》ゆたかな姥桜《うばざくら》の観があった。片や若い和宮には京おんなに共通の肌の白さ、きめのこまかさがあり、深窓育ちの貴女の匂やかな香りが鼻先をくすぐるが、花の盛りをすぎた天璋院はその香《かぐわ》しさも失せ、本つ根〈男根〉の坐《おわ》さぬ家定に嫁して、生理的に干乾《ひぼ》しにされてきた欲求不満が臓騒《ヒステリー》となって、その面相をきつくしている……。

慶応四年正月十二日、上方の戦《いくさ》に敗れて慶喜が江戸に逃げ帰ると、大奥の女中たちは青くなって騒ぎ立てた。遠い寿永《じゅえい》のむかしの、壇ノ浦における平家女官輩《ばら》の哀れな末路を思い浮かべたのである。「表の役人にも増して立ち騒ぎしは、かよわ心の住み処、大奥の一構なりけり。世は如何に成り行くべきなど、さわ寄れば障《さわ》れば語り合ひ……」

●江戸城に入城した大総督有栖川宮熾仁親王

慶喜は朝敵の汚名をそそぐため、天障院と静寛院宮とに朝廷へのとりなしを頼んだ。二人はそれぞれ御年寄に嘆願書を持たせて都へ急行させた。

しかし、和宮をこよなく慈《いつく》しまれた孝明天皇はすでに身罷《みまか》られ、十七歳の明治天皇は討幕派の公卿たちにガードされて、大奥差遣《さけん》の御年寄ときいても、だれも一顧だにあたえなかった。もはや大奥に往年の神通力はなかったのである。そうこうするうち、三月十三日におこなわれた西郷・勝会談で、江戸開城は四月十一日と決まった。それを受けて四月八日、大総督府より江戸城明け渡しの命令が徳川家に下り、大奥(図十二)も開城の日までに立ち退《の》くように言い渡された。

十一日まであと三日しかない。「よって当時江戸表に彷徨《さまよ》いおける閤老、参政等協議の上、静寛院宮様ならびに実成院殿を田安御殿へ、天璋院殿を一ツ橋御殿へ、また当時一ツ橋に在らせられける慶喜公の御台所を小石川御館《おやかた》梅の御殿へ移し参らすることに定め、その儀諸院に上申しけるに」天璋院のみ動く気配がない。

「水戸表へ立たれた前将軍の先途《せんど》も見とどけずに、城を明け渡すとは何ごと!」というのが彼女の言い分である。筋が通っているだけに諸役も困り果て、ない知恵を絞ったあげくが、三日間だけの立ち退《の》きと申しあげてだますことにし、岩佐摂津守がその旨を伝えた。九日は日暮れまえのことで、天璋院も「三日間なら」とあっさり諒承《りょうしょう》した。急に引っ越しのお供を命ぜられた女中たちは二日のうちに立ち退くと聞いて、そのあわてざまは尋常ではない。タモン(部屋の走り使い)を生家へやって母や妹に手伝わせる者がいたり、長持に手当たりしだい衣類や調度品などを詰めこんで、荷札をつけて送り出すなど、男顔負けの力仕事に汗だくの体。……かくて天璋院は着替えの衣類と化粧道具を用意しただけで、十日、本寿院と一橋御殿に引っ越した。静寛院宮もその翌日昼すぎ、七年近く暮らした大奥に名残《なごり》を惜しみながら、実成院ともども田安御殿に移っていった。がらんとして人気《ひとけ》のなくなった大奥には、長局《ながつぼね》(奥女中)一人と、大奥の御用をつかさどってきた御広敷役人三、四十人がひかえているだけ……。外は陽光燦々《さん》たる若葉の季節というのに、ここ大奥は寒々として咳《しわぶき》ひとつない。

「(御広敷役人が)物寂しげに額集めて、今宵《こよい》一夜をこの空寒なる大広間に明かすことかと思えば、いと心細くあわれを催し、しばらくは語もなくてありしが……」

「イザ立退かれよと御日付の指図に、役人は一同御広座敷に集り、着座して紅葉山《もみじやま》の方に向いて再拝し、御先祖代々、我々も代々昼夜を別《わか》たず出仕せし大奥も、今日よりぞ永の別となるべしとて、顔見合せて今更らの如くにかこち……」

万感胸にせまって目頭を押さえながら部屋を去り、名残《なごり》惜しげにあとを振りかえりつつ、ともすれば立ち止まりがちな自分を叱陀《しった》して平河口にさしかかったのが、いつもなら下城時刻の七ツ時(午後四時)。橋を渡り終えて、ふと右手を見ると、ちょうど薩州の兵五大隊が隊伍を組み、鼓笛《こてき》を打ち鳴らして意気揚々と城へ繰りこむところで、「(その整然たる行進の)心悪くさよ」と「定本江戸城大里」の記述にある。

翌四月十二日、官軍諸藩は西の丸、大手、坂下、桜田、竹橋、清水、田安、矢来、馬場先、雑子橋、一橋の各門を固めた。そして大総督有栖川官熾仁親王が入城。江戸城は二百六十五年にわたる歴史の幕を閉じた。

さて、有栖川宮熾仁親王があえて江戸城無血開城のための大総督をかって出たのは、江戸を戦火から守るためと、愛する元許嫁《いいなづけ》、皇女和宮親子内親王を救い出すことでした。江戸城無血開城のときに、「天璋院は着替えの衣類と化粧道具を用意しただけで、十日、本寿院と一橋御殿に引っ越した。静寛院宮もその翌日昼すぎ、七年近く暮らした大奥に名残を惜しみながら、実成院ともども田安御殿に移っていった」としています。


via 大本柏分苑
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