**2度目の天皇親政の中身**

足利尊氏は綾部生まれ、南朝天皇を封じ逆賊とされたが、創建した天龍寺は後醍醐天皇を祀る。開祖の母は足利尊氏の系統を引いている(聖師談)。

後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府を倒しますが、天皇親政(建武の中興)がままならず、足利尊氏に追放され、1339年失意の内に崩御し、その怨念と悔根は、後の世に 南北朝の争いを残します。天皇親政の革命は建武の中興と明治維新だけで、明治天皇による南朝正統の勅裁はご自身の崩御前年に出されます。1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇(北朝)から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。岩倉には動機があった。 宮中には岩倉の命を受けて忠実に動く女官(堀川紀子、中御門良子)がいた。当時の人々が薩長と手を結んだ岩倉による暗殺とみたのは当然である。

孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。

明治維新前の人々は国家観/天皇観より藩の殿様が全てであった。甲州人とか上州人が最近の官吏とか平民のようなもので、障壁がありました。天皇家は当時3万石の小大名にすぎず、暗殺やら偽の世継ぎは、充分考えられる状況にありました。

禁門の変(1864年)から2年の間に、2度の長州征伐失敗後、薩長による倒幕の流れは、家茂/孝明天皇の不可解な死去と共に、海外の新聞で報道される。 孝明天皇は毒または手槍りで刺された説であり、長州ファイブで英国で化学を学んだ伊藤博文が止めを刺した暗殺者として有力である。伊藤博文は上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させる。薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。

二人を始末して、薩摩屋敷に待機していた大室を宮中に入れ、有栖川宮は倒幕を命じる。 南朝にした西郷は目的を達し、江戸開城で勝海舟と妥協する。 睦仁親王は1853年11月3日(翌年ぺリ-が来航)孝明天皇の第2皇子として誕生、母は中山忠能の娘、慶子である。

病弱な幼少で13歳の年、禁門の変で御所は被弾し、卒倒失神される。坂本龍馬の斡旋で有栖川宮(北朝)が教育係となり、元服を迎える。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。中山忠能は長州に尽力した為、謹慎中で睦仁親王は複雑な心境であったとされる。徳川安泰の時代ではなく、天皇の役割は国政を左右し、政治の主導権争いになる。宮中は無秩序になり猿が出没して警固が充分ではなかった。1867年7月睦仁親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。

15年前、毎日新聞全国版で公開された、1865年長崎で撮影されたフルベッキーと幕末の志士50名の群像写真、センタ-に大室が座っている。右向きであるのは右の頬に庶民の証拠である疱瘡痕があるという。明治天皇の肖像画(御真影)も右を向いている。左耳の大きさ特徴がドンピシャと鑑定されている。大室は奇兵隊(力士隊)所属で大男であった。睦仁親王が小柄で病弱タイプとは様変わりした。

**明治天皇に写真がない訳**

明治天皇は肖像画ばかりで写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、そして大正天皇に子種がない、そして西園寺公望が昭和天皇に上奏し、昭和10年6月の御前会議、12月8日昭和天皇の命令による大本弾圧で信者30余名の殉教者を出す、秀吉による26聖人殉教のカトリック処刑と並ぶ。天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。

霊界物語67巻浮島の怪猫で、アケハル(明治)の岩が浮島となり、われよし・つよいものがちの天皇制ファシズムの崩壊を予言している寓話であり、主神信仰への要諦が説かれる。偽天皇とは、大室寅之祐とか昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人にタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。

憲法の象徴天皇制は偽天皇であれば、削除し本来の共和制に移行すべきです。

明治42年10月伊藤博文がハルピンで安重根に射殺される。明治天皇は伊藤博文の呪縛から解放されるが、翌43年5月大逆事件が起こる。幸徳秋水が大審院で<三種の神器を奪った北朝の天皇を殺して何ゆえ大罪になるのか!秋水の魂は南朝にある!>という発言が外部に漏れ、驚いた山縣有朋は桂首相を呼びつけ、明治44年3月、明治天皇が南朝正統論の勅裁を出す。現在の文科省の学習指導要領では、南朝正統論は明治政府の間違いで、現天皇家は北朝であると断言している。少なくとも岩倉具視/伊藤博文に暗殺された孝明天皇は北朝であり、明治45年7月、明治天皇は61歳で崩御、皇后一条美子も大正3年4月64歳で逝去、昭憲皇太后と遺号される。一条美子は明治天皇の皇后であるのに、なぜ昭憲皇后でなく明治神宮の祭神として昭憲皇太后になったのか?皇太后とは先帝の皇后を指し、孝明天皇の后になる。大正天皇は明治天皇の皇后であった事を断固拒否したのである。一条美子は明治天皇の后ではない、暗殺された睦仁親王の后であり、明治天皇の先帝の后、つまり皇太后であった。皇太后とされた一条美子の実家の支流に鶴殿親子(ちかこ)がいる。美子はこの姪を特別に可愛がった。後に鶴殿親子は大本に入信する。出口王仁三郎の霊界物語口述の御世話をなさり、物語では紫姫として登場し、吉野の後醍醐天皇(南朝)の祟りを鎮められる役割を果たす。

**命令者は誰か**

大正天皇には子種がなく、昭和天皇は西園寺八郎(1881年~1946年、公望の婿養子)の子であるという。大本弾圧の発端は西園寺公望の秘書原田日記に記され、公望が北朝の王仁三郎を討つ必要があったと。昭和40年綾部駅に着いた昭和天皇が大本はどちらの方向かと、京都の蜷川知事に尋ね、知事が反対の方向を指したという逸話は、大本信者に語り継がれています。大本弾圧は1935年12月8日内務省が不敬罪/治安維持法により大本を叩き潰した。表面的にはワシントン・ロンドン条約/天皇機関説反対により岡田倒閣/元老への揺さぶりを鎮圧したとされる。実態はそうではない。首謀者は西園寺公望/昭和天皇である。昭和天皇の実父は西園寺八郎といわれ、終生八郎は侍従として昭和天皇に寄り添っている。西園寺公望の秘書原田熊雄の日記には、大本が政治家達に盛んに運動している事を逐一公望に報告し、大本(教)というものを取締まれと激を飛ばしている。何故公望はそこまで大本を憎んだのか?出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王のご落胤であるがゆえに、昭和神聖会運動などで表舞台に立てば、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると思ったからである。昭和天皇も同意した。

1935年6月御前会議で大本弾圧が決定された。弾圧のやり方は叩き潰す。日本宗教史上稀にみる醜いやり方である。細部にわたって公望は指示したとされ、1940年死去する。

NHKスペシャル<日本人と天皇>(平成30年4月30日放送)で、神武天皇以来125代の天皇の半分は側室の子。この400年、明生/昭和/平成以外は、みな側室の子である。万世一系・一君万民とは名ばかりで、本来の天皇の役割とはほど遠い。

日本人の想念(魂の活動)の思いが清まらず、主神の思い、肝心の所がわからない。信仰的想念とは、人の悲しみ苦しみを受け止め、主神・経典に根ざす事が急務である。

皇統を廃して王仁三郎を天皇にするという自白を強要した大本弾圧で教団は破壊され、御自身も6年8ヶ月独房での拘禁、この時点で天皇制は潰えた。昨年の生前退位で御厨貴は<中身はともかく、イベント化して興味を引くことで、天皇制を維持している>と述べている。ポツダム宣言前後の国体維持の暗躍、対ソ戦略での天皇利用したアメリカは、反動国家主義を復活させた。国祖国常立尊の大本神話(主神信仰)と天岩戸開きの天皇制神話(現人神信仰)とは異質のものである。

事件の原動力、つまり第一次事件の原因となったものは幾つか挙げられる。

① 事件を牽引した内務省や検察、といった国家と警察は、大本に対する二度にわたる警告でも明らかなように、「世の立て替え建て直しは、祭政一致・神政復古・世界と日本の改造・世界動乱・国難到来・綾部遷都・世界大家族主義・私有財産の否認・貨幣制度の廃止などの文辞を掲げて、近く社会国家に大変動あり、人類は絶滅の危機に瀕し、国家の根本的変革必然を説き・・・」社会の治安維持に多大の悪影響を及ぼす宗教類似団体こそ大本であるという判断がありました。

②当時の日本国政府が最も危惧していたことは、国際情勢の中での日本の孤立化、ということでした。国内の社会動乱を導くかも知れない危機は、中国大陸に進出し獲得した権益が損なわれることから導かれる経済的孤立化でした。

大正3年からヨーロッパを主戦場として始まった第一次世界に対しても、中国大陸での日本国の権益保護と拡大のために、表面的に対米、対英の「協調」政策を採用していたのです。

対米英協調政策の破綻こそが当時の政府と経済界にとって死活問題だったのです。

案の定、大戦中は中国大陸での既得権の擁護と拡大に熱心な日本を見逃していた米英は、終戦と同時に、中国内の反日運動を支援しかつ日本に対抗する大陸政策を推進します。それに対抗して対米戦不可避の意識が日本国内に急速に台頭してきます。

③日本国政府が、日本対世界の戦争、特に日米戦が不可避だとする論調に機敏に対応したのは上の理由からでした。そして最も活発に「日米戦」不可避の論調を宣伝扇動していた団体こそ大本だったのです。

事件の原動力、それを創り出した根源は外でもない大本自身かもしれない。


via 大本柏分苑
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