大きな秘密を抱えた一族ほど権力は膨れ上がる。藤原の名を秘す五摂家一条家

和宮暗殺または替玉に岩倉具視はもちろん一条家がからんでいる。一条家は世襲親王家でなく摂関を出す藤原氏の五摂家だから権威は世襲親王家より低い。しかしもともと宮廷をコントロールする力を持ち、権力は絶大。そこには途方もない秘密が集まり、お金が集まるのは周知の権力の力学。特に血統を守るという意味では、いつの時代でも自分の一族・身内の中にすべてをしまい込むからさまざまなところから工作資金が入り込む。大きな秘密を抱えた一族ほど権力はふくれあがり、一族は崇《あが》められ、その懐の深さもまた尊敬される。熟達してくると人の秘密を引き受けることが「家」としての仕事のようになりかねない。

自分が深刻な秘密を持つということは、どうしても秘密を他人と共有することになる。多くの他人の秘密を抱えれば、その他人を時には支配できる。一族を支配したり、時には一国を支配したり。

特に維新の秘密を知った者は、殺されるか、謀略を図ったものの仲間になって、特権を享受することになる。一条家を含む五摂家とは摂政関白に任じ...られる家柄。近衛・九条・二条一条・鷹司の五つの家である。藤原北家の良房が天皇の外祖父として人臣初の摂政に任官してから、その子孫の諸流のうち外戚の地位を得た者の間で摂政・関白の地位が継承されていったが、家定の正室として五摂家の中から、一条家、鷹司家の二人の娘が正室として迎えられ早世・あるいは暗殺された(確証はない)のは、藤原氏が朝廷だけでなく幕府権力さえ狙っていたこと、そのあと薩摩の天璋院篤姫が正室におさまるのですが、薩摩といえばイエスズ会の影を感じざるを得ないのです、話は和宮の死に一転します。

●有栖川宮の死因は割腹自殺であった?

手探りながら、そう考えたのには理由がある。実は、皇女和宮だけではなく婚約者であった有栖川熾仁親王の死についても、ある見逃せない情報を得ていたのだ。「熾仁親王は実は品川御殿で割腹自殺された。血の飛び散った屏風《びょうぶ》が残されているはずです。その御殿は解体されて、山城八幡の円福寺に移された。一幅は大徳寺(臨済宗大徳寺派大本山)の竜光院にある。当時の住職、上月鉄舟がすべてを知っています」。

これは昭和四四年(1969)九月十日、突然訪れた京都の小原某氏から聞いた話である。ごく親しい阿刀弘文氏公に聞かれて『大地の母』執筆中の和明に知らせてくださったのだ。阿刀家は、大嘗祭《だいじょうさい》の執綱《しっこう》を務める家柄とか。弘法大師の兄弟である阿刀大足《おおたり》の直系で有栖川宮とも縁続き、皇室関係の文書も担当している由である。それでも当時は私たちの知識が至らず、消化するだけの時間もなかった。締め切りが迫ってくる。手がかりを求めて『有栖川宮熾仁親王行実《こうじつ》』や『有栖川宮熾仁親王日記』を探っても、かくかくたる事績ばかりで自殺にいたる影もない。

公式には、熾仁親王は日清戦争の勝利を目前とした広島大本営にあり、参謀総長の激務のなかで病を得、舞子別荘に退き療養のところ、マラリアチフスと判明、明治二十八年(1895)一月一五日に崩御したことになっている。六一歳である。

熾仁親王と旭形亀太郎と赤十字 秘密を知りすぎた

明治二十七年、日清戦争が勃発し、九月十七日、大本営を広島に進められるにあたり、明治天皇の生母中山一位の局《つぼね》は大阪に下られ、旭形亀太郎家に御一泊となり、玉鉾《たまほこ》大神に御参拝になった。このとき、有栖川宮、小松、北白川、伏見、久邇《くに》、賀陽《かや》の各宮家からは親電を寄せられたと言う。九月十五日に明治天皇が広島に入ることで、平壌《へいじょう》攻略戦で日本軍が勝利。そして明治二十七年の時の、参謀総長として広島大本営に入ったのは、有栖川宮熾仁親王。明治二十七~八年の戦役の間、旭形は広島に移り住んで大本営にご用を始める。したがって、旭形亀太郎は、有栖川宮熾仁親王を追うように広島に入っている。

大本営とは,明治二六(一八九三)年の勅令(天皇の命令)で制定された戦時下の天皇直属の最高統帥(軍隊を率いること)機関であり、そのおかれているところが首都ともいえるかもしれない。

西南戦争の起こった明治十年の段階で博愛社(現在の日本赤十字社)大阪支部幹事とまでなった実業界の大立者が旭形亀太郎、その博愛社の活動を一八七七年に英断をもって許可したのが有栖川宮熾仁親王だ。。孝明天皇暗殺の日に|鰉《ひがい》を届けようとした旭形亀太郎と、孝明天皇の妹、和宮の|許嫁《いいなずけ》であった有栖川宮熾仁は赤十字社の世界では、両者は同じ「赤十字有功章」を受賞していた。

それにしても、中山一位の局は、その真偽はともかく明治天皇の母とされている人物、その人が旭形家に泊まるとは、明治天皇と旭形亀太郎の関係もなみなみならぬものがあるということか。いや中山一位の局と明治天皇は生涯一度も会ったことはないという。明治天皇が大室寅之佑であればそれは頷《うなず》ける。

孝明天皇にとって旭形亀太郎は、『霊界物語』での白狐《びやっこ》旭と白狐高倉・月日明神であるかのように見えてくる。しかし旭形は、その記録の中でも、あえて有栖川宮熾仁親王との関係を秘匿《ひとく》したと思う。秘密を守ること、それが月日明神としての役割だろう。これだけ密接な旭形と有栖川宮熾仁親王です。旭形はうすうす、熾仁親王の子として誕生した上田喜三郎、後の出口王仁三郎の存在を知っていたかもしれない。。

なお、広島には、日清戦争時の大本営を解除された後も、大正、昭和にかけさまざまな軍事施設が増強され、太平洋戦争末期には、西日本一円を管轄する第二総軍司令部が置かれていた。もし日本がポツダム宣言などで敗戦を受け入れたら、日本で反乱が起こる導火線は、まさにここ広島。その広島に原爆を落とすことによって、米国およびそれに通じた人たちは、日本が敗戦を巡って国体を護持し、そして内戦に陥るのを防ごうとした。自分たちの身の安全を図ろうとしたのではなかったのか。(日本の一番醜い日 鬼塚英昭)

ちなみに広島・ひろしまのひろ とは「火の固まり」を言霊学では示す。

●元有栖川宮旧臣報恩会瀬尾謙一の証言と有栖川宮関係者からの縁談申込み

熾仁親王国葬の二四日、父とも知らず新聞を読み上げる二四歳の上田喜三郎に、祖母宇能がつぶやく。

「そうやなあ。夢をみての。宮さまがお腹をめされる夢を……」その後、昭和四八年一月十一日、熾仁親王落胤の証を求めて、京都修学院に住む瀬尾謙一氏を訪ねた。元有栖川宮旧臣報恩会の会長である瀬尾氏は、さすがにやわらかい語り口のなかにぴりっとした一線を引いている。

「私の家は代々有栖川宮家にお仕えしています。現代のように履歴書一枚で雇用関係が成り立つのではなく、世襲制でした。いざというときは切腹を仰《おお》せつかることもある。お手打ちだってあり得る。命をかけた仕事として主従は不思議な因縁で結ばれているのです。そういう話(王仁三郎落胤説)があったことは知っていましたが、だれも口に出した者はいない。代々仕《つか》えてきた者たちに迷惑がかかるという、狭くて頑固な考え方があることをわかってほしいと思います……」。

打ち解けた二時間ほどの話のなかで、「和宮の左手首」という言葉を発した途端、それをさえぎるように、瀬尾氏は凛《りん》としてこう語った。

「しかし、父は子のために隠し、子は父のために隠す、これわが家のチョク(直・勅?)なり、という言葉があります。私は何でもかでも実際はどうだったんだと調べることがはたしてよいことなのか、考えてみなければいけないと思います……」

毅然とした瀬尾氏の言葉に、この現代においても、いまなお越えてはならないある一線が厳として存在することを思い知らされるとともに、ますます不可解な思いにとらわれたのだ。〈それにしても落胤説が事実でなければ瀬尾氏は一言の下に否定できたはず。〉

昔、お世話好きの媒酌人さんがいて、有栖川宮家の侍従さんの家から縁談の申し込みがあった。その頃有栖川宮家の侍従さんというのがいたかわからないけど、あるいは元祖有栖川宮旧臣報恩会の関係者の一部の方からの縁談申し込みだったのかもしれない。熾仁親王落胤説が一笑に付すようなことであれば、決して関係者から縁談など申し込みはなかっただろう。


via 大本柏分苑
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