南部郁子は日本の東北である、朝敵とされた盛岡藩の女性であり、かつ盛岡藩主南部利剛の正室の娘でもない。皇女和宮と本来、何のゆかりもないはず。和宮の替玉となることなど、親王が夫君として許すはずがないではないか。確かにその美貌、品位は皇女にふさわしいものではあるが 。伏見宮邦家親王第十二王子である華頂宮博経親王の年譜を調べてみました。

嘉永四年(一八五一)

三月十八日誕生

嘉永五年(一八五二)

十月十二日知恩院相続(門跡)

万延元年(一八六〇)

八月二七日孝明天皇猶子

万延元年(一八六〇)徳川家茂猶子

万延元年(一八六〇)

十一月二九日親王宣下・名を博経とする

万延元年(一八六〇)

一二月二九日落飾・知恩院門跡・法名尊秀入道親王

慶応四年(一八六八)

一月七日復飾・復名博経親王

慶応四年(一八六八)

一月十日華頂宮家創設

明治元年(一八六八)

九月一八日元服

明治三年(一八七〇)

六月アメリカ留学

明治五年(一八七二)

八月病気帰国

明治九年(一八七六)

五月一三日任海軍少将

明治九年(一八七六)

五月二四日薨去

●南部郁子は皇女和宮の義理の娘だった!?

洋装姿の和宮の写真が、実は南部郁子の写真だった。それは南部郁子が和宮の替玉である傍証とはなりますが、決定打とまではいかない。南部郁子が輿入れした華頂宮博経親王は、知恩院に入寺して落飾し、尊秀入道親王と称しましたが、明治維新後還俗して、知恩院の山号・華頂山にちなんで華頂宮の宮号を賜り一家を創設しました。

一八六〇年には、博経親王は、孝明天皇と徳川家茂の猶子だったのです。当時の公家の養子には三種類あり、養子、猶子、実子の三種類です。禁中並公家諸法度で、公家が女系の縁で養子を取ることは禁止されました。際限なく公家が増え、費用がかかることを防止する措置でしょうか。

猶子とは、明治以前において存在した、他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶことです。ただし養子とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)が強いといいます。実子は、他人の子供を「実の子供」とするわけですから、生家の系譜から抹消されます。養子と猶子は生家の系譜から抹消されないわけですね。

だから現在の感覚とは多少異なりますが、博経親王は、皇女和宮から見て、兄である孝明天皇の子、すなわち甥であり、和宮の夫君である徳川家茂の子、義理の子供であったわけです。

さらに不可解なのは、南部郁子と博経親王の間に生まれたとされる博厚親王です。伊藤博文は、口止め料として爵位を乱発したといわれますが、宮号も乱発したのでしょうか、伏見宮邦家親王は、十七人の王子と十五人の王女がいます。その十二王子である博経親王にまで宮家の創設を許しているのですが、この宮家は本来一代限りで、博厚親王は臣籍降下するはずでした。明治天皇の思し召しで皇族の身分を保ち、明治十六年(一八八三年)二月十五日に明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去します。

このような破格の待遇は、裏を返せば、それだけ握っている秘密が大きいことを示すのではないかと思います。当時、すべてが白日のもとにさらされたならば、日本には、「玉」である天皇が乱立し、それぞれに外国勢力がついて、内戦がとめどもなく広がり、日本が分割統治されたかもしれません。

いずれにせよ、自身の写真が皇女和宮とされた南部郁子妃の輿入先(こしいれさき)は、北朝最後の天皇、孝明天皇の子息の家系であり、かつ第十四代将軍徳川家茂の家系でした。南部郁子妃は、和宮から見て、義理の子、博経親王が兄孝明天皇の猶子なので姪の関係に立つことになります。そして、和宮が京都にいたとする明治三年から五年には、華頂宮博経親王は、アメリカに留学して、五年に病気帰国することになります。ただ博経親王が清に留学していたという伝聞もあり、謎に包まれています。病身の身で明治九年に海軍少将を任じられ、翌日薨去します。なぜ翌日薨去かというと、たとえ暗殺にしても死と同時に位階を上げることにより、一族を納得させるためでしょう。昇進すれば当然死と同時に多額の弔慰金なり位階があがったうえでのいわば口封じ金、口止め料も含めて支給されるでしょう。

明治九年には、孝明天皇とその妻、和宮、徳川家茂の系譜を猶子として担う博経親王は、薨去してしまいます。これで維新の元勲たちによる口止めは完了したのでしょうか。

ここまで読まれて、鋭敏な読書の方は気づかれたと思います。再び記します。

●皇女和宮は東京の南部家の屋敷に居住していた

和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院(図二十二)・家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七年)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった。

柳沢明子は大和郡山の藩主の妻の身、ここでの皇女和宮を南部郁子と推定しましょう。

和宮と天璋院との確執は、本来二人は天敵のような存在であり、協働で大奥を守ることはあったとしても、自由な状態で、皇族や天璋院・家達などと幅広い交流などすることはありえないことを記したかったからです。和宮は江戸でも御簾の中に入り人に姿を見せず、そのためか入浴も月に一度くらいだったとする伝聞もあります。もし幅広い交流をするような女性であれば、真っ先に有栖川宮の姻戚との交流があったはずです。

和宮が生きていたのならば、有栖川宮熾仁親王が、官位を返上してまで京都に留まることはなかった。官位を返上して、出家してでも和宮と一緒になったはず。しかし和宮が江戸でいっしょに過ごしたのは、陸奥国八戸藩の第九代(最後)の藩主で明治初期の政治家、南部(島津)信順です。信順の長男は南部栄信であり、家督を信順から譲られます。明治五年に八戸から東京に移り住み、明治七年(一八七四)二月に南部利剛次女の麻子と結婚します。南部郁子は、利剛の娘ですから、麻子とは姉妹になります。南部(島津)信順は島津重豪の十四男です。

そして、島津重豪薩摩藩主の曾孫が島津斉彬であり、その養女が天璋院篤姫なのです。系図をみておわかりのように、島津家と天璋院、南部家は親せき同士であり、東京へ越した皇女和宮の替玉、南部郁子が姉妹の義父である南部信順の屋敷に居住することは当然です。天璋院と交流を持つのもまったく自然。宮家に入ることが生涯の念願だった南部郁子は、幸か不幸か、華頂宮に嫁いだものの夫君に死なれ、和宮として過ごすことになります。南部郁子はその親戚、南部信順の屋敷で過ごすことで、明治維新の秘密の保持を果たすことになります。

このように、明治七年以降、東京に滞在した皇女和宮親子内親王が、南部郁子であることは、間違いのないことと考えます。

ひとつわからないのは、皇女和宮の左手首です。それは亀岡市の八木清之助の家系の家で、明治二年から五輪の塔の下で眠っているのでしょう。

第一章の「失われた和宮の左手首を巡る謎」の中で、「和宮は座棺ばかりの墓地の中で唯一、寝棺で葬られていた。朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、期待された副葬品はなかった。ほかの墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、かすかに足元に絹の細片が散っていただけの淋しさである」と記載しました。京都から江戸に降嫁するときに、お迎えの者など二十万の行列を得た皇女和宮が、いくら明治に時代が変わったといえども、病死し、皆から葬られる時に副葬品ひとつないことはありえない。暗殺されたからこそ、遺骨だけ江戸に届けられ、増上寺に葬られた。だから和宮から「家茂の傍に葬ってほしい」の遺言はなかったはず。家茂が亡くなったのが1866年。和宮の薨去は1869年Ⅰ月20日頃、王仁三郎受胎はおよそ1869年9月26日。寝棺にガラス版を入れたのは、側近でしょうが、そのような小さなものを唯一、和宮の居住地から探し出して棺に入れることは考えにくい。つまり、ガラス板は、京都へ行くときに持っていったものでしょう。有栖川宮が明治元年十月二五日に帰洛し、その有栖川宮に逢いに行ったと考えると、その場所に徳川家茂のガラス板を持っていくのはふさわしくない。増上寺の、和宮の寝棺の中の遺品となる、和宮の両腕の間に抱きしめていた小さなガラス板は、当然有栖川宮熾仁親王の姿を写していた。

皇女和宮薨去が、有栖川宮熾仁親王と上田世祢の逢瀬につながり、出口王仁三郎聖師の出生につながるのです。

皇女和宮が明治二年一月二十日頃に岩倉具視らに暗殺され、そのことが有栖川宮熾仁親王の東京行拒否、有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁を通しての、伏見での上田よねとの出逢い、出口王仁三郎聖師の誕生につながったことを推論しました。そして、盛岡藩最後の藩主南部利剛の娘、南部郁子妃と、昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩主柳澤保申の妻、柳澤明子の二人が、和宮が公式に薨去したとされる明治十年頃までその替玉の役目を果たしたであろうことを著述してきました。明治十年とされる公式な皇女和宮の葬儀に関与したのが伊藤博文です。図二は欧米視察の岩倉使節団の写真ですが、維新の元勲たちが映っています。

しかしまだ不明な解決すべき問題があります。

一、皇女和宮の公式記録では、明治十年九月二日に、和宮が薨去されたことになっている。当然、大がかりな葬式が行われ、ご遺体の改めも行われたはず。そのご遺体自体も替玉であったのですか。

二、小坂家で発見されたという、皇女和宮の写真について、どういう経緯で撮影されたことになっているのか記録は残っていないのですか。もう少し説得力が欲しい。

この二点です。

●和宮を密葬した阿弥陀寺水野和上の証言

皇女和宮は私の援用する『調査団宛の手紙』の老婆の指摘では、明治初年に箱根山中に暗殺され、公式記録では、明治十年九月二日に箱根塔ノ沢《とうのさわ》で薨去されたことになっている。その和宮の密葬をされた箱根阿育王山阿弥陀寺のホームページ上で、第三八世和上、水野賢世が和宮について記載していますので、引用します。

和宮親子内親王は、弘化三年(一八四六)閏五月十日未刻(午後二時頃)、仁孝天皇第八皇女として生まれた。母は典侍橋本経子(議奏権大納言橋本實久の女、のちの観行院である。仁孝天皇は多くの后妃との間に七男八女をもうけられたが、大半は夭逝して、成人したのは三人のみ。姉の敏宮と兄、のちの孝明天皇、そして和宮であった。

和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化三年一月二六日にお風邪がもとで病死なされている(御年四七歳)。御誕生後、七夜に当たる閏五月十六日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。

和宮は六歳の時、有栖川宮家の長男熾仁親王(天保六年二月十九日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は十七歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら六歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学んだのである。

和宮は小柄でとても可愛らしい少女で、一メートル四三センチ、三四キロくらいだったとのこと。和宮は成長して十四歳を迎える頃、熾仁親王は二五歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体」。

この時代は日本にとって重大な政治問題が山積、国際的な問題も多々あり、国内的には尊王攘夷を旗印として倒幕を目指す連中の力を殺ぐためには、「公武合体」即ち江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと幕府は考えた。ときの将軍は紀州家から来た家茂(弘化三年閏五月二四日生)であった。

大老井伊直弼《は早くから公武合体を望んでいた。こうして和睦を図る一方で、京都の反対を押し切ってアメリカと条約を結んだが、反対派が激昂すると彼らを次々と捕えて投獄していった。いわゆる安政の大獄である。吉田松蔭、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内など、前途有為の人たちが犠牲になった。その後しばらくして、こんどは井伊直弼自身が水戸浪士らの凶刃にかかって桜田門外で果てたのであった。

井伊大老横死の後、老中 久世広周、安藤信正らの画策により、万延元年(一八六〇)四月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮家への輿入も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。

和宮は拒絶した。帝《も妹宮の胸の内を思いやり、この結婚には反対の旨を幕府に伝えたのである。しかし幕府は諦めず何度となく圧力をかけて来た。帝は「仕方がない。それでは去年生まれた娘壽万宮〈岩倉具視の実妹堀河紀子の長女、孝明天皇第三皇女〉を江戸へ送ろう。嬰児では困ると幕府がいうなら、退位しよう」と、帝は関白九条尚忠に手紙を宛てて信条を述べた。この手紙の写しが新大典侍勧修寺徳子と勾当掌侍《こうとうしょうじ》高野房子の両名により和宮の所へ届けられた。書面には「壽万宮を江戸へ」と書かれたあと、帝は「一人娘のことで、少々寂しくはあるが〈第一皇女、第二皇女は死去していた〉」と添えられてある、その書面を見せられた和宮は胸を衝かれた。「私が我を張り続けているために、まだ乳のみ子の壽万宮が江戸へ送られる。そればかりか、話がこじれれば帝は退位するとおっしゃっておられる」。和宮は血をはく思いで「承知」の一言をもらされたのであった。

文久元年十月二十日辰刻(午前八時)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数二万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢二十万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り、計四つの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。

落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ

大好きであった熾仁親王と別れて来た。その人の面影を想い、涙を流したことであろう。

十一月十四日に無事板橋の駅に到着、翌十五日江戸九段の清水邸に入られた。それから約一ヵ月後の十二月十一日に、それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。

【皇女和宮=第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁に際し中山道を通って江戸へ向かわれたが、その途中、信州の小坂家で休息された折、小坂家の写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真。ポジのガラス乾板で軍扇に収められている。これを複写したものを小坂家の小坂憲次さん(前衆議院議員)のご好意により、阿弥陀寺に寄進された。】

和宮は数え年三二歳になった頃より脚気の病になり、伊藤博文公の勧めにより明治十年八月七日から箱根塔之沢の「元湯」に静養のため滞在され、一時よくなられて歌会を開かれるまでに快復されたが、二六日目の九月二日、俄に衝心の発作が起こり、この地で他界されたのである。

すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである。しかし和宮の遺言「将軍のお側に」とのお言葉が取り上げられ、九月十三日、増上寺での本葬となった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」と申し上げる。9