生きる者に取って、常に付き纏うのが、一つに今の行動は善か悪かと判断する事でしょう。多分、誰もがその時これが善だと思うから決意をし、進めるのだと思います。然し、その基準は誰が決めたものなのでしょうか。それを教えたのは、誰なのでしょうか。そして世の中には善と悪、二つしか無いのでしょうか。 例えば、戦国時代の昔に溯ってみましょう。当時の勇将と云われる人は、戦利・戦略もありましょうが、首を幾つ取ったかが出世の分かれ目でありました。現代の常識で考えれば、とんでもない事であります。ワーッと先を争って敵方に押し寄せて大将の首を取る事、それこそが最大の功名であり、それこそが禄高が一挙に何百万石も跳ね上がる基準だったのです。したがって、敵の首を取る事や親の仇を討つ事等、命の遣り取りで功名を得る事は、当時の立派な善の印であり、誰もが酒杯を挙げて祝ったのです。ですから日本中に幾百とある城の城主は、殺戮を重ね、それを大義名分として城を与えられて、士農工商の頂点に立った人達なのです。その時代、それは勲章であり、また誰も疑義すら持たなかったのであります。 然し、中にはその時代にほとほと嫌気がさして、頭を丸めて僧になったり、これで何が幸せかと思う人達も数多く居りました。物語りに、酒の上の喧嘩から父が斬られ、上役から父の仇を討つ様命じられた子が悩む話が出て参ります。その場合、情もさる事乍ら、この仇討ちが正当な行為かどうかの狭間での苦悩が多く書かれて居ります。明治以降の法律では、殺人は事情に依り異なりますが、死を以て償うべき程重大な悪となります。長い時間をかけて、そこに至った理由や心情、事情を調べ、確認をし討論をして裁決を致しますが、それは取りも直さず善か悪かを先ず追求して行くと云う事です。然し、理と云うものを深く考えれば考える程、善か悪か、そしてそのどちらでも無いか、当然考えあぐねる事態が非常に多いと思います。 キリスト教では、善か悪かと云う、善悪二元論がよく語られます。一神教であるキリスト教に於いては、神と神の求めるものこそが善であり、それに反するものは全て悪であると云う考え方から生まれた極論であり、キリスト教や教会の全てが善悪二元論のみに縛られて居るわけではありませんが、一般の信徒や不勉強な教師達は、全てをそれのみで語ろうとする傾向があるようです。それによると、神の意志に従って人間は悪を避けて、清く正しく生きなければならぬと説かれて居ります。然し、ここで良く考えて戴きたいと思います。例えば、貧しい者に食事を与える事は、自らも慈愛の心を持った行為と自負し、周囲もこれを崇高な行為として認めるのが普通であります。全く非難される事の無い行為ではありますが、施される側の貧しい者の心の中はどうでしょうか。些かのプライドでも持つ者は、施しを受ける事に自らを卑下し、却って自ら正しく働いて居るにも拘わらず、普通に食べて行く事が出来ない環境を憎む事となるでしょう。逆に施される事に慣れて仕舞う者は、益々人に頼り、自らの肉体と頭脳を用いて日々の糧を得て行く精神を失って行くのではないでしょうか。他人の命を奪う事も容易い事ではありませんが、人を救うと云う事は遥かに難しい事であります。真にその人を救う為には、人間の見極めが必要です。その人の持つ心や性根が解らなければ、一概に目に見える人助けや施しを善だとか悪だと極め付ける事など出来ないと云う事です。 この様に善悪と云うものは、その時代背景や社会情勢、さらに自らの心の基準となる思想体系に依って決定されるものであり、全てを自分の持つ善悪の基準のみで判断して仕舞い、また善悪の二つのみに分けて仕舞う様な考え方は如何なものでしょうか。 私も含めて、有史以来の宗教家や哲学者等の思想の達人は、良く「この世は幻である。」と云います。それは社会も政治も生活習慣も、そして文化や価値観も時の流れと共に移り変わるものであり、絶対に変化する事の無い正しいものなど人間社会には存在しないと云う事を知っての言葉であります。唯一、絶対と云う事の出来るものは大宇宙の法則であり、自然の摂理のみなのです。それを、人間が自分達の都合の良い様に勝手に決めた善悪の基準を伝家の宝刀の如く振り回して良い気になって居る等、滑稽としか云えません。善悪の狭間に存在する目に見る事の出来ない何かを知る事に依って、初めて人間の力や考えの及ばない世界、それは宇宙であり自然であり異次元の世界でありますが、その存在と真の絶対的なものを知る事となるのです。 文章の達人は、言葉を用いる時に、行間を非常に大切に致します。表面に出て来た物語や、意思の伝達や時候の挨拶は直接的な表し方であり、その裏、もしくはその空間に、字面から感じられる何倍もの想いや揺らぎや願いや、望みが隠されて居ります。その行間を読む事が読む側の楽しみでもあり、また配慮であり知性でありますし、文章を書いた者の本音を知る事にもなって参ります。 社会での交際に付いても、それは云える事であります。たかが人間、自分が考えて居る事を100%相手に伝える事等不可能です。良く伝えられる方で50%位、普通では30%も表現出来ないでしょう。ではどうするかと云えば、「解って欲しい」「この気持ちを汲んで欲しい」果ては「腹芸」「阿吽の呼吸」等と云う言葉で相手に望みます。言葉と言葉の間の考えや思いを読んでくれと云う事であります。これは、誠に人を馬鹿にした仕業とも思えますが、良くしたもので、自分と相手の知性の磨き合いになりますから、面白いものであります。相手が何を云わんとして居るかを一生懸命、表情や目の色や動きで察する事に依り、自分の頭脳がフル回転して来るのです。そこには勘違いも生まれ、読み違いも出て参りましょう。それを訂正したり、他の字を当て嵌める事に依って、自分の思考も知識すらも深くなって来るのです。 私は霊視を致しますから、相手の思考を見る事が出来ます。心の揺れも、御先祖の言葉も、はっきり読み取る事が出来ます。然し、普通人は自分の目、自分の感じで判断せねばなりません。だからこそ、固定観念でこれが善、これが悪と極めつけて考える事の怖さを知らねばならないのです。その間に存在するものが必ずあるのです。例えば病気になった時、明らかに原因が解る場合は兎も角、そうでない場合には人は良く「私が一体何を悪い事をしたのだろう」と申します。結果には、必ず原因がありプロセスがあります。また結果は必然であると同時に、次へのプロセスでもあります。自分の生き方に、何か気の付かない間違いを犯して居たのではないでしょうか。その結果としての病なのではないでしょうか。また、その病気を「悪」と一面的に捉えて仕舞う必要はありません。或いは神佛が、ここで一休みしなさいと申されて居るのかも知れませんし、大きな病気に引き込まれる前兆を教えてくださって居り、今の中に癒しておきなさいと諭されて居るかも知れません。また、その病と闘う中で、何かを学べと仰って居るのかも知れません。健康で丈夫なのが善で、病気が悪と極め付ける前に、その中の神佛の慈悲や自らの生き方を良く考える事であります。とは申せ、やはり身体は丈夫な方が良いのは申すまでもありません。昔から「身体が弱いだけで悪妻」と云う諺がある位ですから、自らの身体を良く知って、常に健康を保つよう努力して下さい。 時折、皆さんにお話しして居りますが、神佛は私に御霊示を下さる時、その言葉は非常に短いものであります。「善し!」「否!」と言葉で示される時もあれば、象徴的な映像や音や匂いで示される場合もあります。それを確実に受け取り、正確に誤り無く伝えるには、常に心を広く大きく開き、感性を研ぎ澄ませて居なければなりません。固定観念や既成概念に縛られて居る状態、善悪二元論のみに拘って受けて居ると、絶対に歪み誤訳する事となります。真っ白で素直な柔軟性が、最も大切なのであります。親子関係にしろ夫婦関係にしろ、社会人の生き方にしろ歪みの無い大きな考えを以て行動して参りたいものと考えます。 どの宗教であれ、古代に於ける真の教えは、天地人・神霊人・霊血肉・身口意の三元論により成立して居ります。善悪・白黒の二つに色分けして考える事は、楽ではありますが、それをして居ては、深みのある魅力的な人間には決して成れないでしょう。また、自然の声・宇宙の息吹・神佛の姿や意志を感じ取る事は絶対に不可能です。 安易に色分けする事無く、また一面的なものの見方に固執する事無く、素直に柔軟に物事を見て下さい。全ての感覚を解放してみて下さい。きっと何かが変化して来る筈です。但し、その為には対象に触れなければなりません。また、自らを解放する訓練をしなければ、長い年月を経て退化した感覚を取り戻す事は不可能です。仕事や役割を一部の人間にのみ任せっぱなしで、自分の持つ狭い視野と退化した感覚のみで外部から見て居るのでは、成長等あり得ません。触れて下さい。行動して下さい。
Adept・Mentor 島津成晃の語録
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