「死ぬときは、あんこに埋もれて死にたい。」
常々僕は、口に出してそう言っている。冗談でもウケ狙いでもなく、心底からそう思っている。
自分に最も向かない職業は、あんこを使う食品製造業の工員であると思う。
もし自分がまんじゅう工場に勤めていたら、手を出すなとどれだけ厳しく言われても、ラインを流れるまんじゅうに手を出してしまうだろう。
無論、1日、2日は我慢するだろうが、1年365日、一度も心の揺らぎなく、毎日我慢し続けられるとはとても思えない。過ちを犯す日は必ず来るだろう。
あんこが僕の人格形成にどの程度影響しているか、自分でも分からないが、DNAレベルの治療でもしなければ、あんこ絶ちは一生不可能であると思う。
亡くなった妻からは、毎年、誕生日に何らかのあんこを貰っていた。
「何らかのあんこ」というと意味が分からないが、つまり袋入りの「つぶあん」や「こしあん」だ。
結婚当初は、ちょっと高級な和菓子であったりもしたが、数年目から、袋入りのあんこそのものになった。
饅頭や大福をあれこれ探すより、あんこそのものを渡した方が手っ取り早いと妻に見抜かれてしまったのだ。
それでも、初めて、袋入りあんこ800gをズシリと渡された時には、さすがに戸惑った。これが誕生日プレゼントか。
しかしすぐに思い直した。むしろ効率的だ。
僕は高級な袋入りのあんこに舌鼓を打ち、喜んで毎日パンにつけて食べた。
「あんこさえ当てがっておけば機嫌がいいから、楽だ。」
妻によく言われたものだ。
ここまで説明すれば分かっていただけるだろう。冒頭の写真は、今年の僕の誕生祝いに積み上げられた、大判焼きタワーである。
正確には誕生日は数日先なのだが、彼女が企画してくれた。
好きな人には今更説明不要だが、「御座候」の大判焼きは絶品である。たった95円で、圧倒的な美味さ。あんこ好きで、これを嫌いな人は一人もいないと断言できるし、無論僕も、愛して止まない。
最初、彼女からこの設計図が送られてきたとき、さすがに冗談かと思ったが、よくよく考えると実現不可能でもない。
僕が53歳になるところへ、「御座候」を年の数だけ53個買う。代金は5300円で、手の届く範囲と言えるだろう。
さらに御座候の「ござ」と53が符合している。
よく考えられた、完璧な企画ではないか。
土曜日の今日、娘と、娘のお友達の男の子、彼女と僕の4人で、買ってきた御座候を積み上げてタワーにした。出来てしまったのがすごい。
これから僕は、「御座候」を見る度に、53歳の誕生日を思い出すだろう。
一ヶ月以上、更新が滞っていたこのブログだが、久しぶりの記事がこのような内容になってしまった。
過去記事のような介護やシングルファザーの悩みでも何でもない。強いて言えば、食べ物に関わる、映え重視、やってみた系の記事か。
楽しい1日を過ごした記録として、どうかお許しください。