夜、妻は一人で介護ベッドのある部屋で寝ている。僕はその隣の部屋で、娘と並んで寝ている。

狭いマンションなので、妻の部屋の物音は壁越し、扉越しに聞こえてくる。

昨年の秋頃から、夜間、断続的に、うーん、うーんと苦しそうな唸り声が聞こえるようになった。はじめは驚いて見に行ったりしたが、どうやら急を要する感じではなく、最近は余程でなければ見に行かなくなった。

確かなことは分からないが、寝付けないときや眠りが浅いときに、寝言のように声を出しているのだと思う。

声が全く聞こえない日もあって、そんな日は、きっと深く眠ったんだろうと思い、安心する。

一方妻は、少しぎこちないが自分で歩くことができるので、夜中にトイレに起きることがある。

家の廊下には、天井に3箇所ほど小さなダウンライトが付いていて、そこに人感センサーで点灯するLED電球を差し込んである。

妻がトイレに起きると、センサーが働いて明かりが灯り、僕の寝ている部屋にも、その光が漏れてくるので、あ、起きたなと気付くことができる。

昨年までは、妻は一人でトイレを済ませており、僕も特に気にせず寝ていた。しかし今年になってから、少し手伝いが必要になった。

ズボンを下ろすことはできるが、上げるのが難しい。妻がトイレに起きたことに気づいたら、僕も起き出して終わるのを待つ。トイレから出たら、パジャマのズボンを上げるのを手伝って、そのあとついでに痰の吸引をしたりする。

妻は、遠慮して決して僕を起こそうとはしない。

僕の方で気付くしかなく、もちろん部屋の扉を開ける音にも気を付けているが、音だけではなかなかしっかり目覚めることができないので、扉の隙間から見える光は、結構重要な役目を果たしてくれている。

そんな風で、最近の夜は、唸り声がないか、廊下の明かりが点いていないか、2つのことを気にしながら寝ている状態だ。

一昨日の夜、午前2時半頃に明かりに気付き、トイレを出た妻のスボンを上げるのを手伝い、痰を取ったのだが、その後僕は目が冴えて眠れず、結局起床時間の4時過ぎまでモヤモヤと過ごしてしまった。

眠れない布団の中で、繰り返し考えた。

今のように廊下の明かりを頼りに起きている間はいいが、妻が一人で起きられなくなったらどうしようか。やはり妻と同じ部屋に寝るべきだろうか。

かと言って小学一年生の娘を一人で寝かすわけにも行かない。3人並んで寝られるようにするには、どこをどう片付けるか、なかなか難しい。そもそも妻は、一人で落ち着いて寝たいと言うだろう。

今、僕と娘が寝ている部屋が、実はトイレに一番近いので、本当はここに介護ベッドを置くのが最善かもしれない。

しかし、子供部屋として勉強机を置いているこの部屋を娘から取り上げるのも忍びない。

娘に理解させなければ部屋の配置換えは難しいし、どうしたら良いか。

切りがなかった。

立ったり、歩いたりが少しづつ辛そうになっていくのを、妻は心細く思っているだろう。生活しやすく整えるのが僕の役目なのだが。

この件はしばらく前から考えているが、なかなか思い切れず、ずるずると先延ばしにしている。

大きな迷い事はもう一つある。

昨日、仕事から帰宅すると、机の上にPTさんからの手紙が置いてあった。

「右手の細やかなことが難しくなってきていますが、ご主人とのやり取りでどのような方法を取られているか教えて下さい。」

会話は、昨年はじめ頃以来、難しくなった。

昨年末には、妻は年賀状に手書きでコメントを書いていたが、あの頃からわずか数カ月で、最近はメッセージボードに字を書くのも厳しくなった。

スマホの入力も苦労がいるようで、いよいよ真剣に文字盤を使うしかないかと思っている。

そんな話をしていたら、今日の昼間、妻はここ最近では珍しく、幾度かLINEで文字を送ってくれた。苦労したのだろうと思うが、最近スタンプばかりだったので、僕は、自分でも驚くほど嬉しかった。

夜のことと、コミュニケーションのこと。

本来、どちらか1つでも深刻なのに、2つの問題が同時に襲ってきている。ALSは容赦がない。

今日寝る前に、妻が、薬師如来様の御札に手を合わせる様子を見て娘が言った。

「手も上手く合わせられなくなったんだ」

何も言えなかった。
悩み事は重なり、合わさって襲ってくるのに。