ベトナム人に物を教えていていつも感じることがある。彼らにとっての勉強とは、科挙時代のように教科書を一言一句暗記することのようだ。つまり 学習スタイルが徹底して東アジアのそれといえる。しかしながら、自発的な学習ということからほど遠く、大学生でも疑問とか仮説を立てるというところまで行くのは容易ではなさそうである。

 

 教師の役目は文法や会話を一言一句 正確に教え込むことである。学生たちは ひたすら言われたことをノートに写し込んでいく。教師の権威は教室の中でこうして確立されている。ベトナムにおいて中国に見られた文化大革命(1966〜76)が起きず、教師が虐殺されるというようなことがなかったのは自然な話だ。まず彼らは当時戦争中だった。そんな暇はなかった。

 

 しかしそれよりも重要なのは、建国の父ホーチミン(1890〜1969)が学問好きだったことである。彼はある 意味 ベトナム人の象徴だと思う。教師をいじめるような中国のやり方は、ベトナム人のそれではないのだ。また文化大革命では父親の権威を剥奪することを教えたが、ベトナムでは男の役割は戦争に行くことであり、女の役割は家庭を守ることと決まっていて、しかも女の存在価値はもともと古代から強い。そういった点でも中国とは大きく異なっていたのである。無理やり父親の権威を剥奪するような必要はない。

 

 ホーチミンはフランス語も英語も 中国語も喋れたという天才的な人物だった。派手さを一切 嫌い、ゴム靴と質素な軍服をまとうだけだった。そういう学問 好きの指導者を持ったということが、ベトナムに幸いしている。考えてみたらベトナムで英雄とされているファンボイチョウも日本に留学をしていた 独立派の闘士である。

 

 この科挙とは一体何なのか。東アジアの文化を考える上で避けては通れない問題である。それについて司馬遼太郎は、『空海の風景』において興味深いことを述べている。空海(774〜835)は大学の明経科に進む。当時の大学寮の中には科がいくつかあり、明経、文章、明法、算などが存在した。

 

 明経=行政科

 文章=文科

 明法=法科

 算 =天文暦数

 

 階層がこの中にあるとすれば、明経が一番である。官僚になるための直接的な道だからだ。当時はまだ朱子学 が出ておらず四書五経といった形で 経典をまとめていなかった。古代は、周易、尚書、儀礼 、礼記、毛詩、春秋左氏伝、孝経、論語を修めた。ここでは 本文と注釈を学ぶのである。一切の勝手な注釈は許されず、創造的な衝動を持つ学生たちを暗澹とさせたことは教科書も決まっていることであったと司馬は述べている。司馬はいう。

 

「中国において隋唐から清末に至る長い歴史時間の中で文化が大停滞するのはあるいは こういうことも一因に数えられるかもしれない」

 

 彼はこのように科挙制度について疑問を投げかけている。それは中国、韓国、ベトナムといったこの制度を取り入れていた国の歴史の解釈にも示唆を与える。このような 伝統が1000年以上も 続き、しかも ベトナムにおいても 残存をしているということは彼らに対して物を教える場合、最も留意しなければならないことの一つである。

 

 私は日本語教師として彼らと接する際、ベトナムの子どもたちが持っている教師像というものをなるべく壊すことを意識的にしている。教室ではなるべく動き回る。教師はずっと座って文法の講釈をするこれがお決まりの像だが 、それは絶対にしないと決めている。教師の存在そのものが文化の伝導なのである。

 

 ところで 空海の風景において このように書いている 司馬遼太郎は、もし仮に空海が、歴史の学習などを含む文科に進んだとしたら、どうなっていたか空想を巡らしている。空海の中に宿っているもっと創造的な部分が触発され、もっと大きい活動をではないかと。しかしその可能性は司馬自身が否定しており、もし空海が文章科を選んでいればあるいは空海は歴史上に存在しなかったかもしれないであろうと。後に長安の文壇でもてはやされるだけの詩才を持った彼はその詩才を充足し、やがてはうだつの上がらぬ非門閥の官吏になっていたかもしれないという。今も変わらないが 天才の証 というのは暗記力というものも大きいのである。

 

 後に仏教の道に進む空海が、この時、官僚養成コースの明経科に進んだのは、中国を中心としたグローバルスタンダードの知識を吸収したということであり、 そこのスタートラインに立てたということである。しかも それは中国に行って多いに役に立った。

 

 この辺りの稿を読んでいて、私はかつての詰め込み型の教育とゆとり教育の対立を思い出さずにはいられないのである。ベトナム人はゆとり教育 だなんて歯牙にもかけていないのだ。そういった点では、未だに科挙制度の名残は消えていないのである。韓国もその点で同じだ。ベトナムの子供はよく勉強をする。ホーチミンの教え5箇条にはよく学び、よく働けと書いてある。

 

 土曜日も学校に行っている。筆者が子供の頃は、月に2回の土曜日は、半日だけ学校に行き、その他は土曜日も休みだった。考えてみたら 私のロストジェネレーションの世代からゆとり教育の試みは始まっていたと考えて良いだろう。それが失われた30年に直結しているかどうかは分からない。しかし 日本人がある意味 頑張らなくなったのもこの時代だと思う。それを助長しているのは、元々日本には科挙の伝統が存在しないということと、科挙と表裏一体でもある東アジア的な国家意識から日本が乖離しているという点もある。

 

 ホーチミンの教え の第1条は、yêu tổ quốc, yêu đồng bào.である。自国と自国民を愛せという意味だ。これを単にフランスからの輸入した国民国家意識のそれと考えるのは早計というものである。私は 科挙の伝統が根底にあり、それが国を統治する官吏の存在を育ててきたという歴史を見なければならないと考えている。その延長に ホーチミンの言葉はあるのだ。

 

 あるベトナム人達の猛烈な学習意欲の中には、こうした国家自体を発展させようという目的意識が働いているのは言うまでもない。これに加えて、近年は深刻な親からのプレッシャーもあり子供たちを蝕んでもいる。お父さんごめんよと言って、マンションのベランダから飛び降りて自殺をするという映像を見せられたのは去年の話だ。

 

 もちろん そのようなベトナム人 ばかりではない。うちのベトナムの家族は幸か不幸か、そういう人たちではない。なぜそうなのかと考えると、東アジアの文化的要素をインド的な仏教が中和しているのである。うちの家族は敬虔とまでは行かないが、なかなかの仏教徒 なのである。東アジア的な科挙のやり方では自分の首を絞めてしまう。その人たちを救済する1つの巨大な伝統として、大乗仏教が存在しているのである。

 

 ともあれ 私の結論ではベトナム人の猛烈な勉強はまだまだこれからも続くであろうということだ。日本今のままでいいのかということもまた私たちは考えなければならないだろう。

 

大井健輔『日本人とベトナム人① 日本人歴史研究家のハノイ日記』をよろしくお願いします。