ついこの間、こんなことがあった。ある企業スタッフについて、そのトップに相談した。その私の報告内容は明らかに無視しえないものであった。するとトップは激昂し、その場で社員Aに電話をかけ、何度も

 

ぶっ殺すぞ、てめえ

 

と罵声を浴びせたのである。店の外で、少数ではあるが日本人が来る可能性がある環境においても、脅迫そのものの文言を絶叫する日本人に、恐怖を感じた。これは日本でなかったらよいものの、日本であったら彼は近所の人によって警察に通報されていたのではないか。なにか事件でも起きたのではないかといいたくなるほどの怒号である。この人は、ここは日本ではないから白昼堂々、こんなことをしているのだ。そうとしか考えられない。日本から出てある意味羽目を外しているのである。つまり、ここだったら何をしてもいいとベトナムを舐めているのだ。

 

同時に、ワンマンでパワハラ気質の会社であることが容易に見えてくる。いかにも、社員とトップとの間に信頼関係がなさそうで、社員Aが当然報告すべきこともトップに言わなかったとすれば、Aにも言い分はある。こんなに、すぐに感情的になり怒号を発し、従業員のプライドを粉々に踏みにじり、ろくに人の言い分も聞かないトップには、誰も報告したくはないだろう。

 

つまりこのトップは裸の王様状態である。より正確に言えば、日本の企業でこの手の会社というのは、報連相(ホウレンソウ)が叫ばれていても、実際にはそれがよく行われていないのであろう。個々の部門、部門の担当者が、重大事以外は、トップには報告せず専権をふるい、タコツボ化しているところも多いのではないか。それはトップに傾聴の姿勢がないことが原因である。それで通ってきたのだから直しようがない。

 

旧日本軍の悪しき体質を最も引き継いでいるのは、この手の企業ではないか。

 

これでは報告すると言っても、まずい報告はせず、いい報告ばかりになろう。正確な情報による戦略は描けない。ともあれ、

二度とこの会社には近づくまい

と思った。

 

日本人は海外に来ると途端に日本国内の態度を変えて何でも好き放題にやるかのような人間がいる。その類だろう。タバコのポイ捨てを日本ではできないのに、ミャンマーに着たとたんにするような日本人は、時や所が変わっても守るべき不変的な道徳律がないから、こういうことをしても平気なのである。つまり、人を見て態度を変えると同じ。簡単に言えば、日本人は心の奥底で、東南アジアを蔑視している。

 

彼らは「現地人もそうしているからいいんだ」というかもしれない。〈郷に入っては郷に従え〉という諺は、when in a foreign land, follow the local customs.などと英語でもいうから世界的にこうした言葉はあるに相違ない。しかし日本人の場合は、もともと宗教的な原理原則性に基づいて行動していないから、その限度が見えないのである。〈郷に従え〉と言っても限度があろう。

 

しかし、日本人への評価は高い。日本人は礼儀正しく、店の人間にすら感謝の念を持つ。頭をよく下げる。そういう身体的な文化的特徴へもアジア人の視線は好意的だ。韓国人や中国人とは顕著な違いがある。そう聞かされることも多い(しかし彼らは、中国人や韓国人に会った時に使うお世辞もあり、日本人は決断が遅すぎるなど言われてもいるのである)。そういわれているならば、そういった美徳を忘れないでほしいと思う。

 

私は人の知性は、物を知っているとか、本を読んでいるとか、そういうことではなく、メタ認知能力の鋭さだと思っている。自己をもう一人の自己が俯瞰して物を見る能力のようなものだが、司馬遼太郎が「日本人には自己解剖の勇気が欠けている」と指摘していた通り、それを持たない日本人が多いから、三〇年も停滞してきたのであろう。失われたこの期間は、私の日本人観がポジティブからネガティブに変わっていく意味を持っていた。私が過去の日本人に模範を求めるという意味での歴史を追究しているのは、現在の日本人に対するこうした見方が影響しているのである。