200万人が無慈悲に殺され、大多数の国民が虐待、拷問を受けていたカンボジア(1975〜9)の物語。


 第3章 部外者


 子供達は懲罰のためリーダーへ何かを報告されることに怯えていたが、これは大人も同様であった。夜私たちがベッドの上に横たわっていると、私は時々両親の低い声を聞いた。もし犬が外で吠えたなら、両親の囁きはすぐに止まるのだった。Chlopたちは窓の側や柱の陰に隠れて潜んでいた。そして私たちを罪に追い込めるため、会話を盗み聞きするのであった。次の出来事は兵士らのドアノックから始まる。もし運が良ければ村の会議に出席させられ、殴られる。しかし運が悪ければ、学習と称しジャングルに連れて行かれ、二度と帰って来られることはない。私たちはChlopのことを恐れた。彼らは残酷な人々で、楽しみのために子供にキックをするからだ。

 毎日の私たちの周囲で起こった残虐な出来事について、順を追って話を始めるのは難しい。私たちが一番恐れたのは十代の村の少年たちである。彼らは邪悪な指導者のために決定されたことや、指示のいかなることもやろうとした。一人の少年がクメールルージュの兵に加わり、早速洗脳をリーダーから受けた。彼の父親が母親以外の女と不倫をしているのが発覚した。彼はその父親を逮捕するように命令され、彼は父を拷問し、責め立てた。そしてその罰は処刑だった。彼は父親を殺した。明らかにそこには良心の呵責やましさなどはなかった。どのようにしてその少年は悪にやすやすと組み入れられてしまったのだろう?

 私は友達がクメールルージュによって逮捕され、その参加を強制された時、彼が家族の元に再び帰ろうとしていたことについて聞いた。彼の家族はある彼らのかつての召使いから逮捕された。彼らは軍隊に属していた。そして家族は死刑を宣告された。


「彼らは全て資本主義者だ、そしてこの国では資本主義はいらない」


と言われた。彼らは私の友達に家族を殺すようにと命令した。彼はできなかった。そして逃げることを計画した。しかし彼は捉えられ、一緒に処刑されることになった。その兵士たちは彼に一つの選択肢を与えたもし彼が行きそして我々に使えるならば彼は家族を殺すべきだもし彼がこれを拒絶したならば彼もまた死ぬべきだ彼は拒否をした。しかし彼の父親は彼のことを愛していて彼が生きることを願っていた。


「私たちを殺しなさい」


と父は言った。


「そして生きなさい」


と彼の父親は彼が合意するまでとき続けた。そしてクメールルージュの人間は彼の紐を解き、彼に銃を与えた。彼らは彼の後ろに立った。彼が反抗してきたときのために備えて、兵士らは背後で銃を向けたのである。私の友達は目を閉じ引き金を何回も引いた。銃弾は家族に向けられた。クメールルージュはそのゲームを楽しみ、私の友達を殺すことによってそれを終わらせた。彼らはその後埋葬されることはなかった。犬に食べさせるためにその死体はそのまま残された。

 通常の人間が残虐にさせられることを想像するのが難しいことだった。しかし一人の若い兵士が戦後逮捕されたことは、どうして彼らが暴力的だったかを説明している。彼の家族は彼が約9つの時に殺されている。そしてクメールルージュの兵士達は彼を世話した。事実上彼らは彼の新しい家族になった。彼らは彼にロンノル将軍のについての兵士たちが彼の家族を殺したことについて語った。そして彼らに死の報復を与えることは、あなたの仕事であると言った。

 1975年から1979年まで彼は恐れを知らずに100人以上の人間を殺した。


 クメールルージュ支配下における無慈悲は意価値のないものであった。200万人の人々はクメールルージュの手によって殺された。


 私はこの軍隊の邪悪さを見ることができたが、しかし私は もし 平穏に生きたいのであれば謙虚に振る舞わなければならないことも知っていた。父は私たちにできるだけ小さい声で話しなさいといつも言った。父は私たちに耳が聞こえずバカのふりをすることと、外では何も話さないことを期待した。父はまた権力者に対し お辞儀をし服従することを求めた。父は私たちに弱くなることを教えていたのだろうか。そうは思わない。彼は権力者の精神性についてよく理解していたのである。彼らは即座に服従することを望み、その残酷さは、些細な犯罪に対して罰を与えることや死刑さえもためらわなかった。彼らは、新しく解放された人々が彼らより劣っていて、完全に彼らの権力の手の中にあることを証明しなければならなかった。

 このような生活は非常に恐ろしかった。私たちは間違った行動をするのではないかと常に恐れていた。夜に騒音、遠くでノックする音、叫び声、銃声などを聞くと、ベッドで縮こまっていた。翌日、誰かが、時には家族全員が行方不明になることもある。私たちは知る由もなかった。できることは、この恐ろしい時代を生き延びることを祈ることだけであった。

 ある日、畑に行っていると、川の近くで見知らぬ人に会った。彼は65歳くらいの初老の男性であった。見知らぬ人に会うのは珍しい。これまで一度も会ったことがなかったので、彼はおそらく遠く離れた別の村の出身だろう。人々は許可なしに旅行することを許されてはいなかった。彼はまるで長い間何も食べていないかのように、痩せていて衰弱しているように見えた。私は彼の様子を見て気の毒に思ったが、話しかけなかった。しかし、彼は私のところに来て、「チャオプロ(孫)、ちょっと待ってくれ」と言った。カンボジアでは、年配の人が子供を「チャオchao」または「チャオプロchao proh」と呼ぶ。(ちなみにベトナム語ではcháuと呼ぶので似ている)。

「私はとてもお腹が空いている。孫よ。もう2か月間何も食べていないんだ。孫のお昼ご飯を少し分けてくれないだろうか?」

 私の昼食はほんの少しのご飯と塩味の魚をバナナの葉で包んだもので十分だった。彼にそれを分けてしまったら、一日中お腹が空いてしまう。でも、それをしないのは利己的で、両親は私にそうなってはいけないと教えてくれていた。私はすぐにイエスと言う気にはなれなかった。私は彼を見て、それから自身の昼ご飯を見て、そのような穏やかな要求を断ることはできないと悟った。


The tears of my soul, Sokreaksa S Himm , p39 -42