すこぶる面白い。

倭、大八洲、秋津島、葦原の中つ国、など様々な呼称があったなかでなぜ日本号が成立していったのか。日本の歴史をやっているなら誰しも疑問を持つ。

なぜ702年に則天武后(690〜705)は日本号を認めたのか。女帝の持統天皇(690〜697)の時期と被っている。則天武后は〈周〉と国号を改めるほどであったから、倭が美称でないことに理解があったかもしれない。しかも使者は自分と同じ女帝の国から来た。そういうところも影響したのかもしれない。

自分で南越と名乗りたいとベトナムのグエン朝のグエン・フック・アイン(1762〜1820)は清朝に申し出たが、古代に強大なナムベト(南越国 趙佗が建国 前207〜前111)があり、広東、広西あたりを領土に組み入れた歴史もあって拒否されている。そして〈ナムベト〉をひっくり返して、今の〈ベトナム〉になったのだ。ことほど左様に中国皇帝に自ら作った国号を提示して認めてもらい名乗るのは容易なことではない。それを日本はやってのけた。自発性もさることながら偶然が作用していたと考えるのは自然ではないか。

日本の外交センスの良さについて何らかの言及があっても良さそうだが、今書いたようなことの記述はない。筆者の関心は私とは違うようだ。

龍樹(150〜200)の『大智度論』には方角についての記述があり、東は日出るとなっていたので、それ自体はそこまで中国側には受け入れるのに不自然ではないのである。日本側はそれを利用したのだろう。そしてそこには世界の中心は中国という中華思想をインド思想をヒントにすり抜けたという側面もあった。

何と日本は自称したとばかり思われていたのを、他称の可能性があることが『釈日本紀』(1300年ころ)などを渉猟し検討している。釈日本紀は他称を排除する意図のもとに成立していたという。


「日本」 国号の由来と歴史 (講談社学術文庫) https://amzn.asia/d/0zBfl3Q