序 栄光と悲劇の国カンボジア


 古代のカンボジアほど魅力ある国は東南アジアにはない。アンコールの寺院は9世紀から13世紀にかけて作られた。仏教の経典は創造的な活力があり、富と力を誇った。

 しかし最近の歴史でこの国ほど悲惨な歴史を持っている国もない。1970年代は戦争と革命により国は荒廃した。1975年からのクメールルージュの支配では200万人のカンボジア国民が犠牲になったとされている。1980年代は国際的な冷戦の犠牲者としてその名を残すことになった。20世紀から21世紀になり、平和と見せかけの経済的な安定がカンボジアに訪れた。カンボジアは平和を知ったが、しかしその平和は強制されたものである。フランスの植民地支配はその一つであり、シアヌーク国王の1950年から60年の支配もそうである。今日カンボジアの政府は経済発展を促進するためにその社会的な安定性の維持のためよく働いているがこれもどうなるかわからない。

 

 古代


 クメール人は古代から現代までのカンボジアの人口のほとんどを構成している。そして、モン人の東南アジア大陸部の広域な支配も及んでいた。モン人は南部ミャンマー、タイ、カンボジア、南部ベトナムにかけて支配的勢力を誇った。

 中国の古代の記録はメコン川の下流域の交易の記録を残している。彼らはその土地のことを扶南(ふなん)と呼んだ。これはクメール人の言葉の丘(ភ្នំ Phnom)の意味が転じたものだと考えられている。扶南は3世紀から7世紀までインドと中国の港市国家として栄えた。ヒンズーと仏教徒の宗教的な生活、文字による記録、稲作のための灌漑用水設備、その他の技術はインドから入ったのであろう。ローマの皇帝の像を刻んだ金貨や、インドの仏像も発見されている。 ヒンズー教のヒエラルキーも社会に入り込んできた。ヒンズーの宗教的儀式や上級官僚もヒンズー教の影響を受けた。クメールの社会はカーストシステムを受容したわけではないが、高度なヒエラルキーをもつ国となった。

 これまた中国の記録によれば、メコン川流域には二つの異なる社会が存在すると考えられていた。一つは真臘と言われる王国である。あとはクメールのエリアと言われている。メコンの北部奥へ進むと南部ラオスになるが、その辺りが真臘の地域であろう。資料によれば真臘は扶南を攻撃したと出ている。扶南は真臘によって7世紀中頃に滅ぼされたと考えられている。

 

以下は、Sokreaksa S. Himm. 2006.The Tears of My Soul, UK, Monarch Booksをまとめたものである。

 第1章 疎開


 シアヌーク国王は1941年に国王となり、1953年にカンボジアを独立国とした。しかしその1年後に彼は王権を放棄し、政治闘争の季節となった。その後彼は首相となり国の元首となった。彼はカンボジアを戦争から遠ざけようと努力したのである。しかし彼は内政で失敗し、左右両派から批判を受けることとなった。左はクメールルージュであり、右は自分自身の政府である。


 1970年のはじめ、シアヌークの王権は廃止されクメール共和国が設立された。これを率いたのはロン・ノル将軍である。彼はアメリカの支持を受けていた。シアヌークは中国に移動した。そして彼は今までの敵としていたクメールルージュと手を組むことにした。これは自分の支配権を復活させようとするためであった。彼はクメールルージュのトップになったのである。しかし彼に実際の力はなかった。


 1970年から75年の間内戦となり、それもカンボジア全土に拡大した。クメールルージュは武器がないのにも関わらず最終的にアメリカの軍隊に対して勝利をした。そしてカンボジア全土はクメールルージュの手に渡ることになった。多くの腐敗を憎む者たちは、心理的にクメールルージュに入ることを強いられた。腐敗した権力と戦うためだった。しかしクメールルージュが権力を握った後が悲惨であった。人々は都市から追放され田舎で働くように指示された。


 クメールルージュは勝利を宣言した後、旧体制の人々を集めた。共産主義思想を勉強をしろ、学校へ行け、と婉曲な表現を使用し、すべての人々を処刑したのである。知識人を殺したのはクメールルージュにとって始まりでしかなかった。シェムリアップに住んでる市民に、


「アメリカ兵が隠れているかもしれないから三日間だけ住んでるところから離れてくれないか」


と言って人々を集め、僻地に追いやった。これは嘘だった。実際は帰ることなどできなかったのである。クメールルージュはこうして市民を都市から追い出したのだ。不平を言う者は容赦なくジャングルで殺されたのだった。


 ルージュの意味は赤の意味だが、民衆は彼らを「黒い悪魔」と呼んでいた。彼らは黒い服を着ていたからだが、人間ではなく、悪魔の心で満たされているようであった。


 民衆には米と塩が供給されたが、水は供給されなかった。そのため、汚染された池から汲んでくる他なかった。数年前、クメールルージュが前の政権と内戦を戦っていた。その時に共和国の兵士らが殺され、池に死体が投げ捨てられた。その水を民衆が飲んでいたのである。人々はそれを知らなかった。後に骸骨と制服が発見され、人々は驚愕するのだった。


 民衆は森林の伐採などをやらされた。これは自分たちが住む家を作るものだと言われた。若い木を切り、それを階段にして、2階にまで登る。そうすれば洪水が来た時に耐えられるからだ。まともに地上に住んでいては洪水の被害に会った時にひとたまりもない。ヤシの葉っぱは屋根にした。そして竹でベッドを作った。家の周りを耕し、トウモロコシやジャガイモなどの野菜を植えた。米も育てた。庭仕事をする道具を偶然に持ってきた家族はこの仕事を難なくこなすことができた。網を作り魚を捕った。


 この時にクメールルージュのことを〈黒い悪魔〉と呼んだ人たちは、彼らの言うことを全て聞くと決めた。なぜなら生き残りたかったからである。


 その作られた村は「新解放村」と名付けられた。何からの解放なのか。それは資本主義の支配による解放である。都市の住民はどんどん田舎に追い払われた。彼らは汚いものとされ、労働を通じて浄化されるべきだとされた。都市にいてクメールルージュに抵抗したものたちはアメリカ資本主義の協力者とみなされた。


 クメールルージュは兵士や警察官といった旧支配体制の行政者たちを都市の追放対象に選んだ。中国人もそうだった。クメールルージュは大学教授、教師、学生もジャングル送りにした。200人の教師の家族も、Reusey Sagnに送られた。


 人々はクメールルージュの許可なくどこかに行くことはできなかった。すべての行動はクメールルージュのルールに基づかなければならなかった。もし破れば懲罰されるか学習と称してどこかに送られる。学習内容は共産主義思想のことであるが形を変えた拷問だった。ジャングルは肉体的かつ心理的な刑務所になっていた。


 クメールルージュは意図的に最も貧しい農民や文字が書けないような人々をリーダーに選んだ。決して教養のある人々を指導者には選ばなかった。彼らは抵抗することもないし、クメールルージュのどんな指示を実行することにも躊躇いがなかったからだ。


 その中の最も野蛮で執念深い指導者は、10代の子供だった。子供は洗脳されやすい。そして権力の乱用を楽しむ。民衆は彼らを恐れた。なぜならばこの時代の子供達はあらゆることをクメールルージュに報告するからだ。もし彼らに目を付けられたら、学習と称してどこかに送られるのは必至である。10代の指導者の少年達はいつしか強大な権力を持つようになった。彼らはすべての人々の間違いを記録し、さらには懲罰するための言い訳じみた理由を探した。


 「新解放村」に移された人々は、すぐにいくつかのグループに分けられた。4ヶ月後に人々はもう生き残れないだろうという恐怖を感じるようになった。仮に少年リーダー達に目を付けられなかったとしても、餓えが迫っていた。米の配給は止まった。自分たちの確保していた食料は全てなくなった。金や銀や宝石などの自分達が持ってきた食料に交換するための貴重品は全てなくなった。紙幣は使えなかった。なぜなら既に廃止されていたからである。家の周りに植えていた野菜はまだ実っていない。何人かの村の人たちがすでに病気と飢饉によって死んだ。三日分の食料しか持たずに来たからだ。だから彼らはこの欠乏状態をしのぐことができなかった。都市から来た人々は農民ではなく、数ヶ月で持続可能な共同体を作るということは不可能だった。


 クメールルージュは家族もバラバラにした。息子とその妻がバラバラの土地で住むことについて抗議した父親は、家族から大変勇気があると賞賛された。リーダーに質問をするというだけでそれは反逆行為として受け止められるからだ。一家の母は泣きに泣いた。


「どんな大変なことがあってもお互い助け合おう。どんなことがあっても共に分かち合おう。共に食事をしよう。私たちは一緒に生活したい。互いに助け合いたい。もし私たちが死ぬならともに死のう」


 この母親の言葉に動かされたこれから去らねばならない息子は、父が拒絶されたのにも関わらずもう一度リーダーの元へ行って一緒に家族と過ごすことはできないかと訴えた。しかし無慈悲にもそのリーダーは彼を学習送りにしようとした。しかしそのリーダーは息子が身につけている時計が欲しくなり、その時計を賄賂として送ることで彼は一緒に家族と行動を共にすることを許された。1年間自分たちで作ったジャングルの中にある小屋で過ごした一家は多少の希望を持って、新しい土地に移動することになった。それはもう少しマシであることを願いながら。


「道はあるが歩いている人はいない。家はあるが住んでいる人はいない」


 あるカンボジア老人の一言である。クメールルージュは都市の住民をすっかり地方へ追い払ってしまったのだ。ゴーストタウンになった。錆びついた車やバイクは道の脇に置かれていた。バックも所持品が重いものは道端に放棄されていた。


 1975年の4月17日人々はキリングフィールド(killing field)に強制的に移動させられた。そしてそれはカンボジアのことわざが真実であるということだ。


 第2章 新しい目的地


 次に行った村のリーダーはとても人格者で、クメールルージュの一員であるにも関わらず、意地悪なことをせず、何かよくなさそうなことをしようとする者がいると、いつでも警告をしに来た。そして食料が豊富な季節になると水辺にはカエルや魚、野っ原にはうさぎや野うさぎなどが現れる。彼はそれらを好きなだけ取って良いと言うのだった。


 それでもその家族の若い者がタイに脱出を企てようとした。その実行は簡単かもしれないが、残された家族らが迫害されるのは間違いないので、どんなことがあっても一緒にいようと誓い合うのだった。


 しかし労働環境は劣悪で女性が妊娠をしたとしても働くことをやめることはできず、重い荷物を持たされたり、体を曲げて田んぼ仕事に精を出すほかなかった。その時に夫は遠いところに送られていくら大家族がいても助けてくれる息子はたった一人だった。労働を少しでもさ俺が他の村人によって告げ口されるのである。彼女はようやく許可が下りてよくなるまで家の中で過ごしていいと言われた。いくら体調が悪くなっても医者がいない。なぜならばすでにクメールルージュによってインテリやその他の仲間として殺されていたからである。その息子は母が神仏に対して祈りを捧げている時にとても不安になった。そして希望がないように感じられた。きっと父親すでに殺されているに違いないと思っていた。


 しかし父は殺されずそのまま帰って来た。家族は大喜びした。父が帰ってきて、息子に何が起こっているのか説明をした。教授や教師や他の専門職の人間は仏教寺院を破壊するために送られているというのである。もし彼らがそれを拒否したら彼らが殺されるであろう。


 クメールルージュは宗教は時間の浪費であると信じていたからだ。もし人々が仏像に対して祈りを捧げたいのであるとすれば、それらは破壊されるべきだ。


 父はある寺に行った時にひとりの旧友にあった。彼は教師だった。同じミッションで送られてきたのである。その彼が父に対して言った。クメールルージュの兵士が何でもあなたににしろって言うならば、それをただするしかない。反抗するな。彼らは私たちをテストしたいのだ。私たちがまだ仏教を信じているかどうかをだ。少なからず多くの人々が消息を絶っている。それはこの仕事をしたくないからだ。


 仏教の一家に育ったとしてもその仕事をやらされた。ブッダの像を破壊することはブッダ自身を殺すことに他ならない。それは彼の魂も含まれている。クメールルージュの兵士の命令に従えば、人は長く生きることが許されるだろう。しかしもしその人が拒絶するのであれば、彼は殺されるだろう。そして家族も苦難を受けるだろう。そうなにも選択肢はないのである。彼は心の中で泣き続けた。それは本当に彼にとって難しい仕事だった。彼に他の選択肢はなかった。その間、クメールルージュの兵士たちに一日中監視され続けていた。


 ある日、父が働いている時、一人の兵士が、「解放される前のあなたの仕事は何だ」と言った。父は正直に「教師をしていた」と答えた。その時彼の友達は、父に「逃げろ」と提案した。正直にクメールルージュの兵士に経歴を語ったものが、その夜のうちにいなくなっているからだ。父はその話を聞いてとても恐怖を感じた。

翌日、違う兵士が再び同じ質問をしてきた。父は正直に同じ答えを繰り返した。とても怖かった。兵士はあなたは正直に答えた。もし仮に嘘をついていたならば、あなたを「学校」(筆者注:学校とは名ばかりの、強制収容所で拷問をされるのだろう)に送っていたろう。実際に父の友達は嘘をついたがために失踪しジャングルで死体となって発見されている。彼は農民だと偽った。殺された後、野生の動物に食わせるために地上に放置された。この事件ほど父親を怖がらせたものなかった。


 母はマラリアでクメールルージュの病院に6日間入院した。それは地獄のような出来事だった。彼女が新しく解放された患者と特別室に移された。誰も彼女の何が悪いのかを聞くことはなかった。彼らは母にいくつかの薬を与えた。そして二つの錠剤を1日で飲むようにと指示した。しかし彼女はできなかった。それは野ウサギの糞のようだからだ。母がそう言った時に私は冗談を言っているのだろうと思った。しかし母はそれが本当だと証明した。どんな病気を持っていようと、全ての患者には同じ錠剤が支給されるのである。そして二人の患者は注射をされた後死亡した。その中身は汚水であった。クメールルージュはヨーロッパの薬の使用を非合法化したのである。そして伝統的な薬草などを医療品として許可したのである。母はもしこの病院にいたとしてても死ぬだけであり、誰も彼女を埋葬する人はいない。最終的に彼女は家に帰ることにしそこで死ぬことにしたのだ。


 私たち一家は絶望的な状況になった。父は何かの根っこをジャングルから掘り出してきた。そしてクメールの伝統的な手法で、彼女のマラリアを治すために準備を始めた。しかしそれは彼女を助けることはしなかった。彼女の病気がとても長かったからだ。彼女は人生のアンフェアな側面について話し続けた。彼女はいい人であった。仏教徒であり、彼女は食事を準備し、それをもって寺に届け、修行僧に提供した。彼女は路上に生きる貧しい人々を助けた。彼女は寺院や学校に金を与えた。彼女は決して生き物を殺すことはしなかった。彼女は人に対して不親切にすることはなかった。彼女はいつも貧者に対して共感を持っていた。彼女はこのような苦難を受けるに値するのだろうか。これは宿命だったのか。しかし彼女は息子が持ってきた状態により一命を取り留め新しい子供も産まれた。


 村の指導者はとても親切で良い男だったので移動させられ、新しい指導者がやってきた。20代の後半である。融通が利かず厳格なため、誰も彼のことを好きな人間はいなかった。彼は盗み聞きをするために自分の配下のものを民家に送り込んだ。実際に不平を口にしているのを偶然盗み聞きされたものは連れて行かれ、ジャングルで殺されたが、その死体はキツネに荒らされてしまった。


 幸いなことにその嫌な指導者がいる村に長くいることはなく新しい村に移動させられた。しかし、私は自分の今置かれてる状況が好きではなかった朝の5時から晩の5時まで働かされた。畑の灌漑を作るためである。私は12歳だ。もはや子供ではない。働かなければ食料の配給を手に入れることはできないだろう。私たちは長く話すこともできない。家に帰る頃には暗くなっており、疲労でクタクタだ。全ての人が働かなければならない。不平を言うことは許されないそれは速やかにChlopsにより罰せられる。


 新しい村で古く解放された人々は、とても不親切だった。彼らは私たちに対して偏見を持っているようだった。それは私たちの白い肌のためである。それは彼らとは全然違う。私は何で彼らが中国人をそんなに嫌うのかできなかった。都市に住んだことがあるプロフェッショナルの人々を嫌った。彼らとは異なるからである。共産主義思想によれば、手作業をする労働者は価値があるとみなされる。黒い肌は太陽の下で仕事をしているということを証明した。米を育てることは革命を支えるということである。白い肌は彼らが腐敗した資本主義階級であることを示している。全ての憎悪と怒りを持つこの階級は心の中にクメールルージュの教えを持ち続けている。


 結婚の儀式は奇妙だった。100人ぐらいのカップルはランダムにクメールルージュによって選ばれ、即座に結婚させられたのである。ほとんどの人が死んだようだった。非常に多くの共同体は破壊され、人間関係も破壊され、多くの場所には混乱が生まれていた。人々は魂は抜き取られ、人口は新しくならなかった。クメールルージュは農業の将来のために子供を必要とした。それで若い男女を選び、子供を作らせようとした。その子供たちは革命のための子どもたちである。いくつかのカップルは一度も会ったことがないのに結婚を合意させられた。もし反抗すれば殺されるだろうからだ。私の姉は幸運だった。既に彼のことを知っているからであり、伝統的な儀式により結婚をすることができた。しかし私たちには彼女の結婚式を見るチャンスはなかった。両親のみが出席を許されたからである。多くのカップル達は数日間一緒にいる時間を与えられた。その後別れさせられ、男と女の作業場に移された。クメールルージュは宗教を廃止した。そこには伝統的な結婚式や家族の生き方も含まれていた。

彼女は幸いなことに彼の村に行くことを許された。それは彼の母親の世話のためである。


第3章 部外者


 子供達は懲罰のためやリーダーへ何かを報告されることに怯えていたが、これは大人も同様であった。夜私たちがベッドの上に横たわっていると、私は時々両親の低い声を聞いた。もし犬が外で吠えたなら、両親の囁きはすぐに止まるのだった。Chlopたちは窓の側や柱の陰に隠れて潜んでいた。そして私たちを罪に追い込めるため、会話を盗み聞きするのであった。次の出来事は兵士らのドアノックから始まる。もし運が良ければ村の会議に出席させられ、殴られる。しかし運が悪ければ、学習と称しジャングルに連れて行かれ、二度と帰って来られることはない。私たちはChlopのことを恐れた。彼らは残酷な人々で、楽しみのために子供にキックをするからだ。

 毎日の私たちの周囲で起こった残虐な出来事について、順を追って話を始めるのは難しい。私たちが一番恐れたのは十代の村の少年たちである。彼らは邪悪な指導者のために決定されたことや、指示のいかなることもやろうとした。一人の少年がクメールルージュの兵に加わり、早速洗脳をリーダーから受けた。彼の父親が母親以外の女と不倫をしているのが発覚した。彼はその父親を逮捕するように命令され、彼は父を拷問し、責め立てた。そしてその罰は処刑だった。彼は父親を殺した。明らかにそこには良心の呵責やましさなどはなかった。どのようにしてその少年は悪にやすやすと組み入れられてしまったのだろう?

 私は友達がクメールルージュによって逮捕され、その参加を強制された時、彼が家族の元に再び帰ろうとしていたことについて聞いた。彼の家族はある彼らのかつての召使いから逮捕された。彼らは軍隊に属していた。そして家族は死刑を宣告された。


「彼らは全て資本主義者だ、そしてこの国では資本主義はいらない」


と言われた。彼らは私の友達に家族を殺すようにと命令した。彼はできなかった。そして逃げることを計画した。しかし彼は捉えられ、一緒に処刑されることになった。その兵士たちは彼に一つの選択肢を与えたもし彼が行きそして我々に使えるならば彼は家族を殺すべきだもし彼がこれを拒絶したならば彼もまた死ぬべきだ彼は拒否をした。しかし彼の父親は彼のことを愛していて彼が生きることを願っていた。


「私たちを殺しなさい」


と父は言った。


「そして生きなさい」


と彼の父親は彼が合意するまでとき続けた。そしてクメールルージュの人間は彼の紐を解き、彼に銃を与えた。彼らは彼の後ろに立った。彼が反抗してきたときのために備えて、兵士らは背後で銃を向けたのである。私の友達は目を閉じ引き金を何回も引いた。銃弾は家族に向けられた。クメールルージュはそのゲームを楽しみ、私の友達を殺すことによってそれを終わらせた。彼らはその後埋葬されることはなかった。犬に食べさせるためにその死体はそのまま残された。

 通常の人間が残虐にさせられることを想像するのが難しいことだった。しかし一人の若い兵士が戦後逮捕されたことは、どうして彼らが暴力的だったかを説明している。彼の家族は彼が約9つの時に殺されている。そしてクメールルージュの兵士達は彼を世話した。事実上彼らは彼の新しい家族になった。彼らは彼にロンノル将軍のについての兵士たちが彼の家族を殺したことについて語った。そして彼らに死の報復を与えることは、あなたの仕事であると言った。

 1975年から1979年まで彼は恐れを知らずに100人以上の人間を殺した。


 クメールルージュ支配下における慈悲なき体制は意味のないものであり価値のないものであった。200万人の人々はクメールルージュの手によって殺された。


続く




参考文献

 

Sokreaksa S. Himm. 2006.The Tears of My Soul, UK, Monarch Books


Edited by Peter Church. 2009. A Short History of South East Asia,Singapore,Asean Focus Group Pty Limited