最近〈憎国心〉に注目しているが、筆者においてなぜ国を憎むという感情が出てくるのか述べておかねばならない。

 第一に、愛国心を鼓吹する者たちが「日本スゲー」といったマスターべションを繰り返し、左派メディア、リベラル言論人を叩くことだけに存在意義を見出している様に疑問を感じてきた点にある(下品だが筆者は彼らを〈マスカキ保守〉と呼んでいる)。そういう人たちは、日本人へ厳しい批判を行った知識人の西部邁を「反日的だ」と述べた。国民性を批判するのは、自己認識にとって有益であるが、多くの日本の保守派はそういう言論を好まないのである。これで果たしていいのだろうか。

 かといって、筆者に国を愛する面がないわけではない。中学の時、歴史の時間に団塊世代の教師が「日本の歴史は悪いことばかりしてきた」と黒色で染め上げるのを見ると、軍国少年だった養父(昭和九年〈一九三四〉生)から教わった知識を武器に、いつも反論ばかりしていた。つい数年前にも、フェイスブックで筆者の居住地であるベトナムのコミュニティーで

 「日本帝国主義の象徴である〈旭日旗〉をベトナムの若者がヘルメットや服のデザインなどで使用するのは、ナチス・ドイツと日本がした悪行を知らぬ無知で野蛮な行為だ」

と一韓国人の男性が投稿したのを見て、ナショナリズムに火がついた私は、中学時代と変わらぬ〈戦闘員〉と化した。男性が不法と主張する日韓併合を含めた批判にも反論した。しまいにはその韓国人は、ベトナム人からも

「ベトナム戦争であなたたち韓国の軍は、我が同胞の罪なき村民を虐殺し、レイプした過去を忘れたのか」

といわれ、たくさんの外国人が見ているコミュニティーから退散する羽目に陥った。

ここで、筆者の敵方であった韓国人も、彼に反論したベトナム人にも、自国の歴史のために立ち上がる意識があったことは消えぬ印象として残った。しかしながら、この経験について他の日本人に話すと、「へー、すごいですね」とだけ言われ、「そんなことで反論する」筆者のほうが変人扱いされた。英文を見てくれた親日家のイギリス人だけが褒めてくれた。そればかりではない。そのコミュニティーにはたくさん日本人も参加しているのに、だれ一人韓国人に「わがこと」として反論しないのも愕然とさせられたのであった。こういう日本人に対しては、友達だとも同胞だとも思えない。

 佐伯啓思の言うように、我々は倫理としてナショナリズムを持つことも、日本を守るうえで必要であり、日本人にはあまりにもこの要素が足りなすぎるのである。


[i] 『しゃべる唯幻論者』 平成一一(一九九九)