昭和五五年(一九八〇)三月号の『文藝春秋』において、この後誕生した鈴木善幸内閣の官房長官に就任する前の宮澤喜一は明かした。



 「実はわたくしは、 外務大臣のときに次官以下の幹部の諸君に宿題を出したのですよ。 まず、こう 問いました。 日本は憲法によって
戦争の放棄を宣言し、どこの国とも仲良くするということを 外交の方針にしていると、わたくしは考えているのだが、間違いないか、とね。げんに、憲法の前文に『諸国民の公正と信義に信頼して・・・』と書いてあるのですよ。
みんな、間違いない、 その通りだと答えました。 そこでわたくしは、いったのです。もしも、どこの国とも仲良くする、ということを実際に行うと、これは大変にモラリティ
(道徳)のない外交にならざるを得ない、とね。そうでしょ。 どこの国とも仲良くするということは、 たとえ、どんなひどい、不正や 非人間的なことが行われていても、その国に対して、制裁行動は起こさないで仲良くするということでしょう。
これはモラリティのない外交ではないですか。 抗議して、やめてくれればよいのですが、 もしも 改めなかったらどうするのですか?
口先で言うくらいじゃ抗議にもならない。まるで効果はない。といって、日本は武力行使はダメ、 威圧もダメ、 十字軍を出すこともできない。 一体どうすればいいのです。結局、日本はモラリティ
のない外交 しかできない。 また国民も、本心では、それを望んでいるのではないですか 。一切の価値判断をしない外交。 しかし、これはごまかし外交でしてね。価値判断といえば、
損得勘定 だけでしょうな。価値判断がないのだから、何も言えない。 言うべきことがない。 ただ頭を叩かれればひっこめる。 世界の空気を眺めて、大勢に従う。日本はこれまで
それでやってきたのですよ。 念のためにいっておきますが 、日本の外交、 いかにあるべきか、という宿題の解答は 外務省の諸君から、今に至るももらっていません」(「ソ連は怖いですか?」)


 情けなさに、気恥ずかしさすら覚えるが、ここで大切なのは、政治を見る側の国民が、政治家に外交におけるモラリティーを要求してこなかったではないかとのいささか開き直りともとれる言であろう。問題はなぜ日本人はそういう国民性なのかということである。この言葉から四三年経っても、憲法は一言一句変わっておらず、大した進展はない。そこに注意をしない限り、こういった事態は永遠に繰り返されるに違いない。


 米ニクソン政権の対中融和政策を受けて田中角栄首相(在任:昭和四七年-四九 一九七二-七四)は「いま中国と付き合っておけば経済的に得が大きい」と判断し、昭和五三年(一九七八)日中平和友好条約の締結に結実してゆく。時間の経過とともに大きく、風向きが変わり、米トランプ政権の対中強硬政策に合わせ、対中デカップリングなどを進めていく。日本人は、アメリカの顔色をうかがうことに関しては天才的な才能が有るらしい。自ら台湾と断交し中国を選んでおいて、アメリカが台湾に寄れば節操もなくそれに態度を合わせる。自ら国際戦略を練るわけではない。例外は故安倍晋三首相の「自由で開かれたインド太平洋」戦略論だけだろう。岸田首相に至っては先祖返りし、もとの場当たり的思考へ回帰した。そこには決断における自主性もなく、常に他人(ほぼアメリカ)の物の見方に甘んじる。



 行動や決断の基準は今現在漂っている雰囲気、空気にしか根拠がないのである。国家として恥の観念はすっかり喪失してしまっている。ルース・ベネディクトは『菊と刀』で欧米の〈恥の文化〉と対比し、〈恥の文化〉日本を発見したが、それすらも消えてなくなるのであれば、〈恥の文化〉が真に日本的な行動原理であったかどうかは疑わしい。