(なぜか?下書き状態の記事があったので再整理・アップします)
16世紀、熊野・那智の浜を旅立ち、黒潮の流れに逆らい1,100km彼方の沖縄県金武村の海岸に辿り着いた『日秀上人』は、
そこで琉球王朝から厚いもてなしをうけ『補陀落院観音寺(金武宮〈きんぐう〉)』を建立し、那覇市にある琉球八社の一つ『波上宮(なみのうえぐう)』などを再興し、精力的に熊野信仰を広げました。
観音浄土❓熊野権現❓ の沖縄には、舟では行けないので、なんだか不思議な感覚でご挨拶したのは、
沖縄本島南部の那覇空港から約90分(50km超)の本島中央部の一番くびれた東海岸に位置する国頭郡金武(きん)町の、
熊野の那智勝浦から補陀落渡海で海岸に漂着した日秀上人が、この金武付近を『補陀落』とみなして建立した『金峰山 観音寺』。
◯ スタート地点となる本州最南端に近い和歌山県那智勝浦町の那智駅から徒歩数分にある『補陀洛山寺(ふだらくさんじ)』には、
小さな屋形船の前後左右に4つの鳥居(発心門、修行門、菩提門、涅槃門を表す)がある『うつぼ舟(復元)』があります。
『補陀洛』とは梵字の『ポータラカ』を漢字に当てたもので観音菩薩が住む浄土の意味であり、遠い海の果てにある観音浄土に到達すれば観音さまの慈悲で安心成仏できると信じられ、
僅かばかりの食料と水を積み込み、外から釘を打ちつけて旅立つという『補陀落渡海』の出発点となるお寺なのです。
事実上、死への旅立ちなのですが、黒潮は南から北に向かって流れる中、沿岸部では逆の渦が起こることもあるらしく、1人だけミラクルが起きていました。
👉 補陀落渡海をした20人を超える僧は『上人』と呼ばれ尊敬され、裏山の供養塔に『○○上人』と名前が刻まれていますが、
舟から脱出した僧・金光坊は、逃げ出して小さな島(金光坊島)に上ったところ、引き返す介添えの役人に見つかり、海に沈められ殺されてしまったので、
金光坊としか刻まれていません(これ以降、補陀洛山渡海は中止されたとか?)。
◯ 琉球王国から特別な扱いを受けた琉球八社の一つ
『金武宮』は、
下り参道の緑のトンネルを抜けて、高野山真言宗の文字が見えて、弘法大師の偉大さが身に染みます。
沖縄本島で唯一戦火を免れた本堂は
1942年に再建されたもので、
『
聖観世音菩薩』&
『熊野権現(伊邪那岐命・速玉男命・事解男命)』に般若心経でご挨拶です

(本堂を右横からパシャリ)
👉 琉球も本土同様に神仏分離が行なわれましたが、『金武宮』は『観音寺』と一体のものとみなされ、分離は免れたのだとか?
境内には、ディサービスのお婆ちゃん達とサポートする若い方 & キャンプハンセンが近いのでベビーカーを引いた複数の外人家族の微笑ましい姿。
枝が絡まり合うガジュマルの木の下に『日秀洞(にっしゅうどう)』という鍾乳洞の入口があります。
日秀上人が熊野権現の三尊を刻み、洞窟内に宮を建てて権現の正体を崇めたのが『金武宮の始まり』で、
地下10mほどの階段を下りて行く途中、先の様子が分からない?ただならぬ雰囲気を感じながら、『金武権現(熊野三所権現)』へ般若心経でご挨拶して、
一番下へ下りた場所には『水天』が祀られていて、ゾクゾクしながら般若心経でご挨拶しました。
鍾乳洞の奥は、観音寺近くの蔵元『金武酒造』の泡盛の保管場所にもなっていて全長270mもあるとか?
この洞窟を辿ると上流の大川に繫がるそうで、そこには金龍が棲むという伝説もあるとか?
布袋様の存在に気づいたのは戻る時でした。
👉 日秀上人が補陀落渡海で、熊野の那智勝浦から琉球の漂着した『富花』の海岸は、
ここから東南へ約3kmほどの『ネイチャーみらい』の裏にある億首川の河口付近の『福花』の漁港辺りなので、岸壁に立って妄想を膨らませました。
ー 写真&動画が無くなっていました(残念)。
(おまけ)
琉球八社の一つ『波上宮』の普段は閉鎖されている本殿の右奥には、
地元の人々からは『なんみんさん』の愛称で親しまれ、海の遥か彼方に存在する海神の国『ニライカナイ』の神々に海の安全や豊漁・豊穣を祈願してきた祈りの聖地の一つが『御嶽』があり、
ビーチから見上げる光景は、稲佐の浜を連想させられてました。