こんにちは、中年大喰ライダーです。(以後、中年と略)このブログでは、中年がランチツーリングで見つけたお店の中で、再訪したもののみ紹介する。「安くてもお腹いっぱいになりたい!」そんな欲張りさんに捧げる愛食のメモリーである。


    唐突で申し訳ないが、皆様は「阿漕浦(あこぎうら)の伝説」というものをご存知だろうか?


この「阿漕浦の伝説」とは、我々津市民にとっては極めてポピュラーな昔話なのだが、津市民以外の方がどれだけ知っているのか、ちょっと興味が湧いたのである。


最初に種明かしをしてしまえば、我々が日常的に使う「アコギな奴」の「アコギ」は上述した「阿漕浦の伝説」という昔話より由来している。まあ、概ね良い意味で使う言葉では無く、現にググってみると、ずうずうしい、あくどい等のマイナス要素のオンパレードだ。


    ただし、津市においては「アコギな奴」は親孝行者を差す言葉だという。無論、この論理は「阿漕浦の伝説」を知る中年ならば理解できるものだが、そんなもん知らん派の方々からすれば、なんのこっちゃということになるだろう。


そこで、今回はこの「阿漕浦の伝説」の要点をかいつまんで、起承転結形式でお話ししたいと思う。因みに、この伝説は先に述べた通り、津市民にとってポピュラー過ぎる昔話であるため、中年が当時通っていた保育園においても、これを題材にした紙芝居が頻繁に催されていた。


    よって今回は、中年の人生において、桃太郎、金太郎、浦島太郎の通称三太郎に負けない頻度で登場した平次(この伝説の主人公を差す)の運命をとくと語るとしよう。


尚、尺の関係上、巻きに巻くので内容が分かり難いかもしれないが、そこは平にご容赦願いたい。それではハンカチの準備のできた方から、平次の世界にレッツダイビングだ。


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起:その昔、平次という名のたいそう親孝行者がいた。


承:平次の母は病弱で、平次は母にしっかりと養生してもらうため、禁漁区となっている阿漕浦にてヤガラの密漁を重ねていた。

※伊勢神宮へ供える魚を捕るため、阿漕浦は禁漁区となっていた。


転:ある日、平次の密漁がバレる。かねてより密漁している者がいると噂がたっており、取り締まりが厳しくなった折りに平次は捕まってしまったのだ。尚、逮捕の決め手となったのは、愛用していた名入の笠を現場に忘れてきてしまったことによるものだった。

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    図らずも捕らわれの身となった平次、かの有名な大岡裁きであれば、恐らく無罪もしくはそれに準ずるものとなったことだろう。だが、残念ながら三重の国には頼みの越前様はいない。さあ、哀れ平次の運命は如何に?


この結末は、いつものように飯を食いつつ、明らかにするとしよう。ただ、事前にお伝えしておきたいが、この伝説は一応美談に纏められているものの、実際にこの結末に納得できる方は少数だろう。無論、中年もこの結末に納得がいく筈も無く、長年に渡り悶々とさせられてきたのである。


従って、この伝説を読む上で疑問に感じた点をピックアップし、文献をもとに自分なりに解決していく作業を、食レポと同時並行で行っていきたい。大変つまらない話しになるが、お付き合いいただけると嬉しく思う。


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手打庵

三重県津市半田158-1

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    これは中年に限ったことではないと思うのだが、自宅からあまりにも近いお店はどうしても手薄になってしまうものだ。「まあ、いつでも行けるか・・・。」と後回しにしてしまつた結果、未だ訪問できていないお店が多々あったりする。


今回紹介したいお店も、そんなお店の一つである。既に何度も「手打庵さんのうどんは美味い!」との情報を友人より得ており、結構な人気店であることも知ってはいたのだが、残念ながら、今まで入ることはなかった。


こう書いてしまうと「近くて、美味いのに、何故行かないのか?」と読者の皆様は不思議に思われるだろう。


ただ、よく考えてみて欲しい。「さあ、メシにしようか!」となった時に、真っ先に脳裏をよぎるのが、油、肉、ニンニクだろう。(個人的見解である)


中華、焼肉、とんかつに負け続けた結果「近い割りに、行ってないお店」になってしまった訳である。


    ところが、先日、同僚との会話の中で「手打庵さんが三重県で一番美味いうどん屋」との情報を得た。


内心「何をもって三重県一なの?」「そもそも、三重県のうどん屋完全制覇したの?」とツッコミを入れたいところは多かったが、それを口に出せる程、中年のハートは強くできていない。


ただ、彼の手打庵さんのうどんにかける思いは十分に感じとることができた。まあ、ここまで言われれば、訪問したくなるのが大喰ライダーのサガである。


    尚、本日は健康診断日。無駄なことだと知りながら三日間の断食を決行し、お腹はペコペコだ。本来ならば健康診断後は「断じて焼肉三昧」になるのだが、本日は同僚激愛の手打庵さんでうどんを食うことにした。


幸いにして仕事に全てをかけるタイプの人間ではないため、仕事をテキトーに片付け定時退社する。「えー、もう帰るのー?」という同僚達の声を振り切り、タイムカードを打つ。


時刻は17時30分04秒。4秒間の遅れをとったものの、ぶっちぎりの一番で会社を後にする。小雨が降る中、ダッシュで車へと急ぐ。腹ペコ過ぎて人格が崩壊しつつある中年には、今は1分1秒の時間すら惜しい。



    帰宅後、速攻で着替え18時過ぎにお店に到着する。頑張った甲斐があり、一番乗りで到着だ。まあ、既に客が入っていた可能性もあるのだが、ここは中年の頑張りに免じて一番乗りということにさせていただこう。


事前に初訪問を謳っていたが、実は本日で二度目の訪問である。一度目は、丁度一週間前に「試し打ち」をしている。これはオススメのお店を紹介をする際に、可能な限り詳細な情報を収集したいからであり、決して一回目に写真を撮り損ねたからではない。(無論、撮り損ねた)



    入り口で消毒を済ませ、店内に侵入。この辺は二回目なのでスムーズだ。感じのいい店主が元気よく迎えてくれることもあって、中年的には大好きなお店の雰囲気である。

テレビの見える角席を占拠し、注文を開始する。店内はカウンター席のみ十二席、椅子は超過密に設置されているので、満席になるとかなり窮屈さを感じそうだ。よって、出来れば客で寿司詰めになる前に入って食事を摂りたいところである。


さらっと注文を済ませ、水を啜る。日中、汗だくで働いていたこともあって、キンキンに冷えた水が美味い。

尚、今回の注文は、「特上てんぷらうどん大盛」と「天巻き1.5本」だ。因みに天巻きはハーフと1本と1.5本の三種類よりサイズを選ぶことができる。まあ、迷った時は一番量の多いものを選べば無問題である。

店主の威勢のいいかけ声とともに、着丼のときを迎える。折角なので前回に注文したカレーうどんも合わせて紹介したい。それでは冷めない内に「いただきます」としよう。



    まずは特上天ぷらうどん(大盛)だ。海老の天ぷらが2本、茄子とピーマンの天ぷら、その他、ネギととろろ昆布が乗っかったなかなか豪華な見た目である。無論、天ぷらは都度揚げているため、これはなかなか期待度が高い。

とは言え、やはりうどん屋の本質は、天ぷらではなくうどんである。他に客がいないこともあり、これならうどんを力一杯啜ることもできそうだ。それでは、ファーストズズーいってみよう。

( ゚Д゚)ウマー

しっかりとした太麺はモチモチ、また噛み切ろうとすれば十分な反発力で押し返してくるコシの強さを備える。そして、これまたしっかりと出汁の効いたツユとともに飢餓状態の中年の体内に吸い込まれていく。こいつは美味いぞ。

無論、天ぷらも最高だ。火傷しそうなほどに熱々の天ぷらは、サックサクの衣がプリプリの海老を包む。また、その食感を殺さぬように海老の天ぷらはツユに完全に浸からないように配慮されている。

中年的には揚げたてを、自身で軽くツユに漬け込んで食べる「しっとりサクサク」派であるため、これは嬉しいぞ。


    参考に前回に食したカレーうどん(カレー天ぷらうどん)も合わせて示しておこう。ただし、前回は不覚にも大盛のコールを忘れてしまっていたため並盛である。天ぷらうどんとカレーうどんとの差異はあれど、サイズ比較に使ってみて欲しい。 まあ、中年的普通の食欲ならば大盛一択だ。

カレーうどんは、しっかりと出汁を聞かせたツユに片栗のトロミがつく。麺はカレーとの相性を考慮し、モチモチの柔らかいもので、コシは抑え目だ。

そして、特筆すべきは具たっぷりのルゥだ。肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎがふんだんに用いられている。具をルゥにしっかりと煮溶かしたものも美味いのだが、中年的には具だくさんカレーが好きだ。

個人的には、うどんはカレーうどんに限ると言いたいところだが、手打庵さんにはまだまだ数多くのうどんがある。何度も通い、自分の好みのうどんを見つけたいところだ。




     そして、手打庵さんにおいて、忘れてはならないのが天巻きである。写真3枚貼り付けているが、1~2枚目が天巻き1.5本であり、3枚目が前回注文の天巻き1本の写真である。

実際に今回食した感想として、うどん大盛と天巻き1.5本の組み合わせは、いかにも量が多すぎた。従って、実務的にはうどん大盛(うどん大盛はマスト)との組み合わせは1本もしくはハーフが望ましい。これは、実食に入る前の注意喚起として、まず読者の皆様にお伝えしておきたい。

それでは、実食に入ろう。まず見た目、ご飯はゆかり(赤シソ)で和えられており、塩気とともにゆかり味が足されていることが予測できる。また、海老もしっかりとしたサイズのものが使われているため、切断面から見るになかなか期待できる仕上がりだ。大いに期待し、一口パクリ。

( ゚Д゚)ウマー

プリプリ、サクサクの海老天とゆかりご飯の相性は抜群だ。無論、うどんとの組み合わせも良い。うどんのお供として、ただのご飯でも十分なのかもしれないが、これを天巻きに置き換えることで幸せ感が大いに増す。実際にこれは素晴らしいぞ。

    と、中年は一つ、また一つと天巻きを胃袋に収納する 。実は年中ダイエット宣言中の中年としては、天巻きと言えども「毒」であり「罪」である。今回もこうして爆食いをしていることに、美味しいと思う反面「また、やってしまった。」と内心罪悪感にうちひしがれているのである。

とは言え、出されたものを残す所業は中年的には許されない。だから、一つ、また一つと罪を重ねる。そうして、天巻きは一つ残らず中年の胃酸の海へと沈んだ。

    それでは最後に「平次」のその後についてお話ししよう。

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結:平次は潔く全ての罪を自供、罰として簀巻きにされて海に沈められた。(終了)
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まさかの終わりである。実際にこの救いの無い結末に関しては、保育園時代の中年も衝撃を受けた。瞬間パニックになる中年。「簀巻きとは何か?」「そもそも死ななきゃならないほどの罪を平次は犯したのか?」「平次の病弱な母はどうなったのか?」そんなことが頭のなかを駆け巡った。

「簀巻きとは何か?」これに対する答えは、保育園の先生が事細かに教えてくれたため、十分に理解ができた。即ち、当時五歳の中年は読み書きを覚える前に「簀巻き」の意味を知ることになったのだ。

そして、ここは記憶があやふやな部分だが、簀巻きのインパクトが強すぎて、簀巻きの平次が海中に沈んでいく「絵柄」が今でも脳裏にこびりついている。(紙芝居の絵の中に平次が沈んでいくさまがあったかは不明)

このことが、幼少の中年の心を深く抉ったことは言うまでもない。「法は何より尊し」これが中年が「気に入らなければ簀巻き」の次に知った人間社会の理である。どうやら私の通っていた保育園は幼子に遵法精神を叩き込むなかなかイカした校風だったようだ。(実際、道徳教育は超充実していたことからも、そんなところに力を入れていたのだろう)

    まあ、そんな教育が中年の人生に役立ったかどうかはさておき、未だ解けていない諸問題が残されている。何も分からないままにしておくのも気持ちが悪いため、ここに列記し、まとめて解決してしまおう。

「アコギの意味が親孝行でないこと」「平次は何故死なねばならなかったのか」「情状酌量の余地はなかったのか」「病弱の母はその後どうなったのか」

これらの疑問は全て「実は平次が超がつくほどに極悪人だった」ということで解決する。我欲にまみれ、阿漕浦での密漁を繰り返した結果、情状酌量の余地もなく、平次は死刑となったのだ。

よって、アコギの意味が、あくどいであったり、ずうずうしいとなることにも合点がいくのである。

その後、江戸時代にこの阿漕浦の伝説が人形浄瑠璃として、お涙ちょうだい劇にすり替えられてしまったことにより、アコギにはめでたく「親孝行者」という意味も付与されたのである。
※津市の条例で「アコギ」は褒め言葉として使用するように制定されている。


    お腹が一杯に満たされ、中年はその罪にまみれた腹をさする。今回も美味かったと思った反面「また食べ過ぎてしまった・・・。」という後悔が無かった訳ではない。

しかし、美味い飯との出会いはまさに一期一会、加えて美味い飯に出会えた喜びは、摂取カロリーに比例して大きくなる。だからこそ食べ過ぎてしまったことに若干の後悔はあったとしても、それを遥かに上回る感動があった。

無論、現在の中年はドラえもん体型であることを考慮すれば、ダイエットは必至である。まあこの問題に関しては、ダイエットをいつから始めるかの検討を週明けより始めようと、心に誓おう。自分にとことん甘い中年である。保育園時代の英才教育は中年にとって何一つ響かなかったようだ。

    以上、巻きに巻いた「平次の簀巻き伝説」を語る中年は、手打庵の天巻きの美味さに思わず舌を巻くの巻、終了である。ご馳走さまでした!