それにしても豊臣秀吉が辺地で沼が多く貧しい寒村だった関東に追い
やられた徳川家康ってえ人物は先見の目があり過ぎるぐらいあったん
ですなあ。元祖・公共事業の大将がつぎつぎと沼地を成敗したり、治水
をつくっていったでしょうから、目先の効いた商人や農民が大挙、江戸
へと草木をなびかせていったことでしょう。結果論ですが家康でなくて、
凡将が関東に移封されて、なんら手を付けなかったとしたら、全然違っ
た江戸の街になっていたかもわかりませんな。勢力を削ぐために辺境

の地に飛ばされた家康は恐らく国家、、いや徳川家を未来栄華を存続
させるため、チエを絞ったと思います。しかし家康だけの発想とは信じ
難いようなスケールですから決っと土木治水に長けたその道のプロが
いたんでしょうな。隠れた職人集団が。大名の力を弱めるため江戸の
土木治水の普請と妻子を人質にして勤務地から江戸に「参勤交代」の
システムを考え出したのも著者は経済の活性化と文化の普及には大
いに役に立ったとありました。余談ですが今のような「壁耳」を特技と、

するような瓦版屋はいませんから武家や庶民の嗅覚もさぞかし鋭かった
と思いますよ。だって鼻や耳をそば立てていないと死に直結してしまう、
緊張感があったでしょうからねえ。今みたいに”今日、熱中症に罹った
ひとは何人で病院に搬送されたひとは何人”だなんて余計なことを教え
てくれませんでしょうしね。昔だって日射病に罹ったひとはいたんですよ
でも毎日報道されていると現代人はヤワになったと勘違いしたくなります
な。まあ江戸時代に生きたひとたちは、目や鼻をアンテナにしてストレス

とかうつ病に罹る暇もないぐらい、、いや罹ったと思う暇もないぐらい一生
懸命だったと思います。私がガキのころの終戦のドサクサと同じような環
境だったと思いますよ。でもそんな厳しい環境のなか江戸のセーフティー
ネットはどうであったか。もちろん今の安倍内閣みたいに痒いところに手
が届くようなネットではなかったようですが、例えば万治2年(1659年)に
は江戸市中の老幼・障害者に当時制限されていた振り売りの許可証(免
状)の緩和策をとって生活維持を図ったり寛政3年に設立された「七分

積金」は江戸の庶民向けの備荒貯穀や土地を担保にした低利融資の
原資であり低所得者向けの財源でもあった。この背景には天明の飢饉
に伴って発生した江戸での大規模な打ち壊しに対する幕府の危機感が
あった。農村で貧窮した人々が江戸などの大都市に流入するようになる
と低所得者の集団が出現する。景気が良くなればそうした人々は未熟
練労働者として生きられたが不景気や飢饉、物価上昇に直面すると、
たちまちその日の食にも困るようになる。それが打ち壊しの予備軍とな

った。寛政4年5月になると窮民救済の手続きが町奉行から名主や家主
に伝達され1.高齢者で身体が不自由で扶養する者がいない”2.幼年で
最寄りがない3.若くても貧困で長病に罹って面倒をみる者がいないとい
った者が救済の対象になった該当者が町内に居れば名主・大家が実態
を把握したうえで名主の証明書を大家が町会所に持参して「手当」を請求
受領することになった。当時の法政上「大家=家主といえば親も同然」な
ので家主やそれを監督する名主に「生活保護の支給」の実質的な決定権
を与えたのであった。
  
   ”宵越しの銭は持たねェ” 一般的には江戸っ子の気風の
   良さを謳っていますが 明日は明日の風が吹く みたいな
   切ない世相が伝わってまいります 現代瓦版 ぐっさんハイ

*突然ですが体調を崩してしまい。来週から緊急入院となりました
 生還はムリかもわかりませんが、精一杯、抵抗してみます。