投手陣の整備が急務だった。緊急協議の結果”桑田でイクと決まった。
ドラフト会議の蓋が開き桑田を指名すると大騒ぎになった。本人は困惑
し清原は悔し泣き。あの時、清原を指名したほうがよかったかもしれない
し、そうでなかったこもしれない。それは誰にもわからない。即戦力と見
込んだ桑田だったが須藤二軍監督は”体ができるまで”となかなかよこし
てくれない。1年目は2勝1敗。この年も優勝を逃がした。就任して優勝
がないまま迎えた4年目、私は今年最後と思ってなりふり構わずやると

宣言した。誰がなんと言おうと自分の思ったようにやるだけ。その象徴が
鹿取、角、サンチェの救援トリオだった。勝ちパターンになったら、とにか
く3人を投入して逃げ切る毎日に「ワンパターン」「酷使」との声が聞こえ
てきたが、それで結構。何を言われても勝つのみだった。「今年が最後」
という覚悟で臨んだ87年は鹿取らの健闘でモノにできた。大エースが君
臨した時代と違って今は7回以降の投手の勝負で決まる。酷使と言われ
た鹿取が今でも”出てナンボの商売だから使ってくれて有り難かった”と

言ってくれるのが嬉しい。打線は篠塚が首位打者となり中畑、原の中軸
も3割を打った。吉村も3割30本塁打と結果を出し、先発陣の柱は2年
目の桑田だ、15勝6敗で防御率1位。最終的に星野・中日に8ゲーム差
をつけて優勝した。森監督率いる西武との日本シリーズは2勝4敗で破
れた。監督5年目に大事故が起こった。7月6日の中日戦で左翼の吉村
が守備固めにはいった栄村が激突し選手生命にかかわる大怪我をした
ホープの離脱は後々まで祟ることになり結局、中日に12ゲーム差の、

2位に終わった。残り3試合になったところで正力オーナーに呼ばれた。
”来年は指揮をとらなくていい”。世間には長嶋さんの退陣と重ねONとい
う功労者に冷たすぎるという声もあった。しかしこの世界は球団から契約
しないと言われたらそれまでだ。”わかりました”と言い30年間着続けた
背番号1のユニフォームを脱いだ。裏方さんたちが私と国松コーチの送
別会をしてくれた。いろんな感情がこみあげて帰りのハイヤーの中で涙
がとまらなかった。ユニフォームを脱いでなにをしていいかわからなかっ

た。しかし私は講釈師になりがちな解説の仕事は好きになれず一年くら
いは英語を勉強するなどボーッとしていた。そんなとき大リーガーの本塁
打王ハンク・アーロンとのCMの共演があった。その席で世界のこどもた
ちに野球の楽しさを伝えていこうという話で盛り上がった。今年で25回を
迎えライフワークとなった。世界少年野球大会はこうして生まれた。2、3
年と浪人生活が過ぎていった。その間、長嶋さんが巨人の監督に復帰
した。それから、ほどなくダイエーホークス(現ソフトバンク)から監督就任
の話があった。
    
    名選手になることは、難しくない。努力を怠らず、目の前に
    あるものをキッカケを逃さずに確実に掴んでいけば、必ず
    どうにかなる。                     王貞治