選手本人は勝っても負けても自己責任と割り切れるが大変なのは家族
父は私が打てないとテーブルを叩いて悔しがっていたそうだ。もともと私
を野球選手にしたかったわけではない親に少しは恩返しができたと思う
とこみあげてくるものがある。現役の22年間とったタイトルは本塁打王
15回、打撃王13回、首位打者5回、三冠王が二度にMVP9回。しかし
その数より誇れるのは狙ってとったタイトル一度もないということかもしれ
ない。シーズン終盤、打撃首位の選手が欠場するケースもみられるが、

私は休まなかった。”巨人は個人の成績のための野球は一切しなかった
タイトルはチームの勝利のために出続けた結果ついてきたものだ。とく
に三冠は狙ってとるものではないと実感する。三冠王になるのは巨人V9
になる73年だ。51本塁打、114打点、打率は3割5分5厘。打率という
ものは突き詰めれば限りがなく引退するときも”22年やったが、つかみ
切れないまま終わったといっていいくらい三冠王の陰に長嶋さんの衰え
が、あったことも否定できないだろう。最盛期の光があまりにも長かった

ため輝きを失いはじめたミスターの姿は端でみていても寂しかった。私に
も訪れるものだった。私のモットーは、どこが痛かろうが、とにかく出続け
ること。オープン戦も皆勤して通算98発打った。私の一番の誇りはジャ
イアンツのユニフォームを着て誰よりも多く試合に出たこと。その数283
1。球団記録としてまだ残っている。通算本塁打868よりもこの数字のほ
うが自分のかなでは重い。三塁手として長嶋さん、私は一塁手として受け
続けた。素直できれいな球だった。送球の回転が今でもありありと蘇る。

送球には性格が表れる。長嶋さんはとにかく堅実だった。送球後、「右
手ひらひら」はファンにウケたが球筋に浮ついたところはなかった。「三
塁線や三遊間のゴロに飛びついたときでも最高の球を送ってきた。そん
な、一面をもつ長嶋さんがV10を逃がした74年限りで引退。川上さんの
あとを継いで監督になった。厳しい統制を敷いて「哲のカーテン」とか「管
理野球」だとかいわれた川上さんだが私たち選手は監督の存在を意識
しなかった。そんな見慣れた景色が15年ぶりにかわる。長嶋さんの、

どんな面がでるのだろう、私を含め選手がにわかに監督という存在を意
識しはじめた。相手と戦う前に、まずベンチを気にするような空気のなか
はじまった75年は散々なシーズンとなった。オープン戦で肉離れを起こ
し開幕から代打か欠場ということになり4月は4勝10敗2引き分けと躓い
たものONが不在とあれば当然の結果であった。不慮の故障とはいえ、
長嶋さんには申し訳ないことをした。チームはそのまま低迷、球団史上、
初の最下位となった。個人としても不本意なシーズンとなり連続本塁打
王は13年でとまった。
     
     勝負は、「ゲームセット」と審判が言うまで分からない。
     直球を一球でしとめろ。それが、できなくなれば終わり
     だぞ。勝つための最善の努力はどんな時もやめては
     いけない。逃げたらだめなのです。      王貞治