60年、64年とリーグ優勝をさらわれた。私が55号本塁打を打った64
年に阪神で29勝をあげエース格だったJ・バッキーはテスト生からの叩
き上げで気が合った。そんなバッキーが、ぶっつかりそうな球を連続で
投げてきた。私はスポーツマンらしくないぞ言おうとマウンドに向かった
両軍のベンチに火がついた。バッキーと荒川コーチの退場で乱闘は、
一応終わったが、なぜ王が退場にならぬという不満が球場に渦巻いた
不幸だったのはバッキーだ。右手の親指を骨折でこの年は13勝止まり
翌年は近鉄に移籍し勝てないまま引退した。この一件は投手と打者の
18.4メートルを隔てて野球の恐さが集約していた。命のやりとりをして
いるのだ。打球が正面になり投手を襲うこともある。投手と打者の間の
殺気。乱闘はまずいがそれらが私を鍛えてくれたのは間違いない。一
本足打法は調子の波を大きく何度もスランプを味わった。とくに苦しか
ったのはチームがV7がかかった71年だった。7月の球宴まで28本塁
打をマークした。ところが夏場に強い私が失速した。7月後半から10
試合連続本塁打なし。打率も2割9分を切った。師匠の荒川さんは前年
限りで退団していたのだ。自分の引き出しから引っ張り出してはみるが
迷路は深まるばかり。しかし39本塁打でタイトルはとったものの打率は
2割7分6厘だった。一本足で打ってから最低の成績だった。ふりかえ
れば我々ONは好敵手に恵まれた。江夏も山田もプライドをかけて勝負
を挑んできた。組織の一員であると同時に我々はひとりの侍でいられた
私は長嶋さんや私が打ったら勝ち、打たなければ負けと心に決めてい
た。”もうそんな野球では勝てません”と今の監督たちには言われるだろ
うが夜空に白球がポーンと舞い上がりスタンドのお客さんの列がサッと
割れて球が落ち時間がとまる。そうしてダイヤモンドをひとり回る。状況
がひと振りで変わる。ホームランの魅力をみんなと表現しよう。とにかく
私はそれにとりつかれた人間だ。「王シフト」をとられようが敬遠攻めに
あおうがスタイルは変えなかった。王シフトが生まれたのは64年、4打
席連続本塁打を打ったつぎの試合5月5日の広島戦からだった。打席
に向かうと野手がサッと右に動いた。外野手も移動し三遊間から左翼
線は無人になった。こうして打ち続けたが当初は、あまり注目されなか
った。様子が違ってきたのは「世界」に及んできたからだ。9月3日鈴木
投手(ヤクルト)との第二打席、打球が右翼に舞い上がったとき私はこ
れで騒動が終わるとホッとした。元来パフォーマンスは苦手だ。堀内投
手が運転するリリーフカーで場内を一周しベートーベンの「英雄」が流れ
マウンドであいさつした。球団の広報が気をきかせて両親を球場に呼ん
でくれた。
敵と戦う時間は短い。自分との戦いこそが明暗を分ける。
練習を怠る人が上手くなることはないんですよ。修練した
人が上手くなるんです。 王貞治
練習を怠る人が上手くなることはないんですよ。修練した
人が上手くなるんです。 王貞治