女の奥座敷は江戸でしたが、女の園は宝塚にありますねえ。その女性
ばかりのパラダイスに憧れた男性が今日の主人公なんです。その方の
お名前は植田紳爾(しんじ)さん。HPを繰ってみましたら大会社の重役
さんって感じで、とても宝塚歌劇団の演出家とは思えない風貌でありまし
た。この方も深夜便で子守唄みたいに聞いていましたので正直なところ
ぼんやりと、うたた寝状態でしたのでHPからパクってしまいました。アッ
なじころ、日経の「私の履歴書」にも登場してありました。その歴史認識
の中で興味深い記述がありましたので出前します。「宝塚歌劇団には
数年間「カゲコーラス」という男子の合唱団があり舞台の影で歌っていた
やがて「女性だけの舞台」を望むファンの声におされ解散となった。その
余波で宝塚映画製作所に行くことになり在籍時に司葉子が活躍して本
当にきれいだった。その間、コマ・スタジアムに行かないかと言われため
らっている間に話は立ち消えになった。もしコマ・スタジアムの移籍の話
を決めていたら私の歌劇団人生はなかった。57年1月、宝塚の門をく
ぐった。私の立場は演出助手。歌劇団の逸材、天津乙女さん、春日野
八千代さんのふたりを主演に据え、日本物ミュージカルの脚本を書くこ
とだった。約2週間後、歌劇団に激震が走った。創立者・小林一三先生
が病没されたのだ。私の第一作は「舞い込んだ神さま」のタイトルで脚
本を提出。入団一年目から無理だろうと思っていたら”あれ、やるから”
と言われて驚いた。配役は御山櫻・那智わたるらだった。公演が始まる
と予想外の反響があった。第一作としては法外の結果だったが桂米朝
さんの番組に出演して落語をヒントに書いた経緯を話すと”その落語は
私だす”、道理で面白かったはずだと合点がいった。’59年に歌劇団は
4ヶ月間のカナダ・アメリカ公演に行った。残留組の私はメンバーに選ば
れた浜木綿子らに海外渡航はまだ珍しかったので関西の神社のお守り
を集めて道中の安全を願ってプレゼントした。お守りのご加護もあったの
だろうか。帰国便にエンジントラブルが発生したが羽田空港に無事到着
した。一時はテレビに”遭難か乗客に宝塚の団体”とテロップが流れ、
三沢基地から米軍機が万一の備えて発進して帰国便を誘導する騒ぎに
なった。ただ搭乗していた面々は「歓迎レセプション」勘違いしていたとい
うから、あまりの世間知らずに驚いた。65年、63名の団員はフランスに
向かって旅立った。出迎え役のジュリエット・グレコが一人ひとりの首にレ
イをかけてくれた。が、雨でレイの色が落ち訪問着が台無しになった。そ
れに気付いた嘆声は今も耳に残っている。フランス側が女性を強調した
演出の要請で、宝塚にはなかった中性的な男役を生み出す契機になっ
た、というところでひと息いれましょう。
宝塚歌劇は昨年、100周年を迎えたのでNHK紅白でも派手に
記念イベントでもやるのかと勝手に思っていましたが自前の朝
ドラのPRに終始していました。謹んでお祝い申し上げます。
にわか宝塚ファン ぐっさんハイ