ありのままで生きるということは難しいです。仏教では「断捨離(だんしゃ
り)」ともいいます。昔と違って今は成熟社会といわれています。つまり
足し算だけの社会から引き算の社会へと移っています。話はかわります
がウチの弟子が永平寺に修行に行きましたら体重が10キロも減ったう
えに脚気になりました(笑い)。つまり普段は、いいものを食べてのんき、
にやっていたのが一変して朝は4時に起きて清掃からスタートしてお経を
あげて就寝までテレビは勿論スマホやインターネットとは無縁の世界に

なります。食事も一汁一菜の粗末なものです(下を向くひと)。修行の辛
さはやったひとでないとわかりません(見上げて頷くひと)。脚気になると
オシッコが近くなります(笑い)。座禅を組み、足が棒になって修行中は
風呂にもはいれません(また下を向くひと)。このように修行によって日
頃のすべての雑念が削ぎ落とされます。修行中に言葉使いも、厳しく注
意されて、修行が終わるころには”はい”と”いいえ”のふたつの言葉に
なってしまいます。これすなわち「退歩」を学ぶことになります(頷くひと)。

でも、帰ってきてしばらくすると元の姿に戻ります(笑い)。余談になりま
すが、こないだイチゴ栽培のひとと立ち話をしましたら”和尚さんの話で
いえばウチはビニールハウスで石油を焚いて無理やり栽培をしています
だから、すぐ傷んだりコストもかかります”といわれたことがありますが、
なるほどと思いました。みなさんもご存知の山頭火も永平寺に学んだこ
とがあります。そのとき詠んだ”捨てられぬ 荷物の重さ前後”というの
があります。山頭火も煩悩に明け暮れたひとりです。ですから我々の胸

を打つような咏が生まれたんだと思います(頷くひと)。アッそれから先
ほどお配りしたお題「放下箬(ほうげじゃく)」をそそっかしいひとは下着
と読んで下着まで抜ぎ捨てることだと勘違いするひとがいます(爆笑)。
そうではなく、ありのまま、別の教えでは「本来無一物」ともいいます。
ダルマさんは選挙では引っ張りだ名だたる方ですね(笑い)。その方の
教えでは我々はみな仏の子です。しかし時々曇ってしまいます。ですか
ら修行が必要なんです。年をとりますと物欲はすくなくなっていきますが

捨てきれないものが多くなります。ある修行僧4人が「無言の業」を行っ
ていました。やがて夜になり灯明を点けた。ところが灯明が消えてしまっ
た。するとひとりの僧が”油が切れた、差したらどうか”といいました。
すると別のひとりが”無言の業で声をあげるとは何事!”と一喝しました
残った修行僧がニンマリししながら”おれは声をあげなかった”と呟きま
した。だが間違いでした。最後の目立たぬような僧が一番厄介な修行
僧だったんです。つまり、金も要らぬ名誉も要らぬ命も要らぬと呟くよう
なひとこそ一番野心があって厄介だというのです。


  



  出前で偉そうなことを呟く私 なんだかお坊に見透かされた
  ような説法ではありました   雑念が一杯の ぐっさんハイ