岩本は神風特攻作戦に断固反対を主張した。”戦闘機乗りは何度も戦
って相手を多く落すのが仕事だ。一度で死んでたまるか。俺は否だ!”。
との自論を展開し、彼の言動に対する上官の詰問には”命ある限り戦っ
てこそ、戦闘機乗りです!”と毅然と反論したという。彼自身は特攻隊員
にされることはなく、特攻隊の護衛任務に当った。訓練時間を極度に短
縮して育てられた操縦技量も未熟な少年搭乗員が敵艦に命中すること
もなく戦死していく状況に強い憤りを感じていたという。回想録では”特攻

機の突入を目の当たりにして、髪の毛が逆立つ思いであった”と心境を
吐露している。岩本は、常軌を逸した命令に対してはたとえ上官であっ
ても決然と筋を通す、強いプロ意識を持っていた。岩本を理解する柴田
中野、福田、八木、岡本晴年、岡嶋といった上官たちからは信頼を寄せ
られていた。草鹿は”ラバウルの戦闘機隊の奮戦は物凄かった”と回想
録で激賞している。また部下や訓練生、整備兵たちにも信頼され愛され
た人間であった。予科練出身の252空所属若年搭乗員の回想には、

”優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象
は受けなかった”と記述している。整備員から搭乗員に転科した岩本は
整備員からも『最強の零戦パイロット』と渾名され慕われていた。整備不
良の機体が多く、事故で死亡する搭乗員が多い中で岩本が整備不良に
より事故死することなく任務を遂行できたことは戦争末期の日本軍では
奇跡的な存在である。戦況悪化により搭乗員は坊主刈りを強制された
が岩本は長髪を押し通し八木司令には例外扱いにされた。救命胴衣

の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところ、自らを名刀工
虎徹作の刀に見立てて救命胴衣の背中に「零戦虎徹」、「天下の浪人
」など大書していた。彼はラバウル時代、レーダーを避けた単機夜間
洋上超低空飛行によるブーゲンビル島トロキナ飛行場銃撃の経験が
あり、茂原二五二空では後にサイパン銃撃隊(第一御盾隊)隊員とな
る若年搭乗員達を訓練していた。また最後は天雷特攻隊の教官として
若年搭乗員達を教えた。岩国の第二〇三航空隊で終戦を迎えるが、

喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになったと述べている。終戦後の
9月5日、海軍中尉に任官した。戦後は東京のマッカーサーGHQに2度
召喚され、公職追放となった。同郷の幸子夫人と結婚するが、すぐに単
身、千葉・北海道の開拓団を志すも1年半で心臓を悪くして挫折し島根
に戻った。その後は戦後の世相に適応できず、次第に心の、はけ口を
アルコールに依存していった。しかし彼らしい強い正義感は失っておら
ず近所で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない
状況をみかねて、岩本は一人淡々と遺体を葬ったとの逸話が残ってい
る。つぎはいよいよ最終回です。
      
    


    軍国主義の真っ只中 軍人にして桜の花をこよなく愛した 
         ロマンティスト 岩本徹三       ぐっさんハイ