昭和17年夏に下士官(一飛曹)としては異例の功5級金鵄勲章(大尉
~少尉の生存者のうち武功抜群相当)を初回叙勲された。支那事変で
の零戦の活躍は中国人民にも知れ渡り、零戦が低空飛行をした地域
では軍票の価値が跳ね上がったという。岩本は若いが技量実績抜群
の戦闘機隊トップエースとして’40年4月から日本海軍の中心である、
連合艦隊の第1艦隊所属の第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練を開始。
予備艦になっていた「龍驤」を使っての激しい母艦訓練を開始した。

訓練内容は離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練
洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信電話での母艦との通信連絡、
および航法機器による帰投などであった。翌年41年4月付で連合艦隊
内の第1航空艦隊創設に伴い第1航空艦隊の第3航空戦隊となった「瑞
鳳」戦闘機隊に配属になり飛行学校を卒業したての若い後輩たちを迎
え訓練を続行した。同年秋に最新型の高速大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」
が進水し第5航空戦隊が創設された。 3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊

隊員たちは第5航空戦隊創立。第1期メンバーとして 二手に分かれて
「瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。41年秋の出港まで岩本たち1航艦
の搭乗員はその理由を知らされず九州各基地に搭乗機種、艦ごとに
集合して当時世界3大、海軍国の米国、英国を飛行技量でしのぐ最高
の艦隊搭乗員の実力を目指して連日、激しい訓練が続けられていた。
当時の第1航空艦隊には3人乗り雷撃隊、水平爆撃攻撃隊2人乗り急
降下爆撃隊、単座戦闘機隊合せて艦隊搭乗飛行士総数1000名に、

満たず、その内に、前年度からの熟練者はかなり少なかった。岩本の
回想録の記述には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で幸運や
勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上夜間
の飛行操縦術へ科学的に応用活用し確率を上げて生き抜いた様子が
ところどころに描写記述され残されている。太平洋戦争開戦時は第一
航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員で真珠湾攻撃時は艦隊
の上空直衛任務に就いた。その後、母艦と共にインド洋作戦、珊瑚海

海戦と転戦後、館山航空隊に帰還、大村空教員、横空勤務、追浜空
教員任務を経て3月、北千島防備にあたる、第二八一航空隊に配属さ
れ4月には飛曹長に任官し、分隊士となる。世界史上初の空母対空母
決戦となる珊瑚海海戦では、「瑞鶴」上空直掩において頭脳的なポジシ
ョン取りと効率的な補給で「レキシントン」、「ヨークタウン」急降下艦爆隊
の数次、攻撃を防ぎきった。この頃、後輩に当たる堀建二2飛曹は岩本
から次のような指導を受けたことを記憶しているというところでつぎにい
たしましょう。


   



   岩本は次の武士道的言葉を、常々自身に言い聞かせ
   ていたと言われる。 「媚びず、諂わず、とらわれず。」
                        代読 ぐっさんハイ