下あごから半身の男性をカメラが捉えながら出生の経緯からその後の人
生について淡々と語っていました。その男性は出産した病院の取り違え
で2歳の時に育ての父親が死亡。4人の子供のうち三男はすでに亡くな
っており、母親は生活保護を受けながら、女手一つで原告ら3人の子供
を育て上げた。 6畳のアパートには、当時、家電製品がほとんどなくトイ
レも炊事場も共同だった。”テレビがないから、朝、野球の話題に入れな
いんですよ。辛かったですよね、なんでうちにテレビがないのかなって”。

小学校5年生の時には、担任の教諭が突然、”家にテレビがある人”など
と家電品の有無を生徒たちに尋ね、挙手させたという。”私のところは何
もないから手が挙げられない。辛くて下を向いていた。今だったら多分、
嘘でも適当に挙げるんでしょうけど…。近所の住民から向けられた視線は
今でも忘れられなかった。今から思えば親兄弟に似てないっていうことだ
ったのかな”。2人の兄は中学卒業後、すぐに働き始め本人も家計を助け
るために中学卒業とともに町工場に就職。家計を助けた。一方、教育熱

心だったという産みの親夫妻は裕福で4人の子供はいずれも大学や大学
院へ進学。大手企業へ就職した。男性は”60年間、大した苦労をしたとは
思っていない”としつつも、両家の大きな「差」に複雑な思いをのぞかせた。
しかし、再会することが叶わなかった実の両親と苦労しながら育ててくれた
母親に対し”実の両親には、この世に生を受けたということで感謝している
”と淡々と語っていた(省略)。」あるブン屋さんの記事をパクらせてもらいま
したが過酷な運命というか、まさに天と地の思いを余儀なくされた半身で、

テレビに登場した男性は現在は育ての兄とともに暮らし食事の面倒をみな
がら産みの親の弟たちとは月に、1回程度、酒を飲むなど交流を深めてい
るという。  そこでだ、こどもたちよ、俺がガキのころだって、どうだかと思
うことがあったぞ。お袋は”あんたは橋の下から拾ろうてきた子たい、あん
たんごと悪か子はウチの子じゃなか”と悪さをすれば叩かれながら、いつも
口にしとったよ。でもな食事に事欠くようなときでも自分は食わんでも”かあ
ちゃんな腹は減っとらんたい食わんでもヨカ”といって雑炊を俺たちに食わ

せてくれた。口の周りについた食い物は舐めながらきれいにしてくれた。
それが当たり前の姿だった。今の母親のように滅菌加工のナップキンで
拭き取るのが当然の世界では想像外の世界で俺たちは育った。そういう
親子の暗黙の太い絆があった。敢えて”家族愛”とか”絆”を口にする必
要がなかった良き時代であった。こどもたちよ、DNAなどと夢をぶち壊す
ような判定の小道具など当てにするな。本当の父親なのかどうか母上に
聞け、真実は母のみぞ知るだ。
          ひたすら信頼関係で父親と思っている ぐっさんハイ